7月18日。午前中の便で成田からデンパサールまで。ガルーダの機内は異様に空いていて、例によって一睡もしてなかったので四列占拠して寝る。デンパサールに着くと、トランジットとはいえ空港の中もバリ臭がプンプンしていて少し緊張。野良犬に吠えられながら鬼神の像が立ち並ぶ暗闇を彷徨った記憶が甦る。一度目はある種の怖いもの知らずだった。二度目は出発前にワヤンの本などを読んでいた時点で既に微妙な恐怖感を覚えていた。ジャカルタ行きに乗り換えると一気に混み合うが、空港に着くとすぐにAが出迎えてくれた。滞在中は彼がずっとアシストをしてくれる。車がなかなか来なくて疲れたが市内までは1時間くらい。それなりにきちんとしたホテル。NやPも来てあれこれ今後のことなど教えてくれる。20日の原稿がまだ終わっていないので少し作業を進めてから寝る。
7月19日。朝食のビュッフェでいきなりシンガポールのRに声をかけられる。Emerging Choreographers のショーケースに出ているのは知っていたがしばらく連絡を取ってなかった。シンガポール出身で今回のキュレーションにも一部関っているF、日本から来た山田うんさん、尾形直子さん、制作のKさん、舞監のHさんにも会う。部屋で原稿を書いて、昼過ぎにAと会場のIKJへ。ホテルから歩いて10分。フェスの事務所へ顔を出してディレクターのNや、S、M、約一年ぶりのHなどと会う。明日使うヴィデオ関係のテックも進めながら、夜の公演まで少し時間があるので別室で原稿を書く。事務の手伝いをしているFがたくさん話しかけて来てくれたが徐々に完成に向かい、その後も場所を転々としながら(ラップトップがボロボロの中古でバッテリーが死んでいるためAC電源が要る)、開場まで仕事する。劇場の二階の廊下の床に座って書いていたら、キーボードがチクチクする。どうも電気が漏れているらしい。変圧器を使っているが電圧は不安定とのこと。チクチクするが書かねばならない。開演時間になってRと一緒に舞台を見る。インドネシアものは本当にワケがわからない。ここでいう「コンテンポラール」というのは、日本で一般的に「モダンなデザイン」とか「モダン家具」とかいう時の「モダン」に近いのではないかと思った。最前列はものすごい数のカメラが並んでいて、シャッター音はおろかフラッシュまでガンガン光って、呆れた。特に最後の、インドの Padmini Chettur のダンスは大変な集中力を要する作品で、この状況下でよく踊り切れたと感服。途中で別の、明日のセッションで一緒になるRとも会えた。彼女と初めて会ったのは一昨年のダブリン。「太った」と言われてテンションが下がる。国際交流基金のTさんとも一年ぶり。さらにKさんともお会いする。終演後は、明日の準備が終わらないので屋台でサテとナシを買って帰り、部屋で食べて仕事する。朝7時にやっとHに送信してそのまま翌日へ。
7月20日。ビュッフェでは昨日と同じくRと、インド系アメリカ人のAとそのダンサーのPと一緒になる。あまり美味しくない朝食もそこそこにしてすぐIKJへ移動。Hが原稿をインドネシア語で要約するというから朝早く送信したのに、この人はメールチェックをしていなかった。そこそこ人が集まってくる。去年ジョクジャで会った女形のDと、Mの奥さんのNにも。Sの司会で、ぼくとR、シンガポールのF(コメンテーター)が紹介された後、Hが逐語訳するという形でぼくのセッション(「日本のコンテンポラリーダンスにおけるアンチ・スペクタクル的な傾向について」)が始まったが、訳が大変らしく予想以上に時間がかかってしまう。しかしSが柔軟に対応して、おそらく非常に要領のいいインドネシア語の要約を最後にしてくれたようだ。質疑は後に回してすぐにRのスピーチ。もともとこのセッションは「ダンス批評」がテーマで、媒体の問題とか書き手をどうやって育てるかとか、どちらかというとプラクティカルな議論になるはずだった。ただ事前の打ち合わせ不足で、ぼくはダンス批評についてではなく、ダンスをめぐる批評的な議論を行ってしまった。Rは新聞社に勤務しているので、マスメディアと批評の関係など、リアルな話がメインで、舞台の記述を旨とする「レヴュアー」ではなく、理論をもった「批評家」が必要だという風にいっていた。Fは全体を理解してぼくとRの間のギャップを埋めようとしてくれたが、コメントの内容には正直なところがっかりした。ぼくは多様な身体的な「経験」が商品としての「表象」へと囲い込まれるメカニズムとして、スペクタクルとグローバル化を語ったのだが、Fはまさにぼくのテクストについてスペクタクル化を遂行したのだった。つまりぼくの今回と前のテクストを念頭に置きつつ、「批評家はダンスをより広い文脈の中に位置づけるために、最新の哲学や思想をどんどん取り入れるべきなのです。ぼくは日本にこんなことをやっている人がいるとは知りませんでしたが、ダンス批評はもっとドゥルーズデリダや、アガンベンをもっと読むべきです。フーコーを超えて行かなきゃいけないんです」などと、ほとんどマンガのような、想像しうる限り最も浅薄な口調で、経験としての読書ではなくて固有名詞(ラベル)を挙げ連ね、単なる「情報」でもって聴衆を威圧しようとするので、正直、赤面してしまった。とはいえ聴衆の中から何人も批評家が質問をしてくれた。明日のセッションを担当するイギリスのAは、ごく真っ当な突っ込みのみならず、日本のダンスとポストモダンダンスの類似についても指摘してくれた。今回ポストモダンダンスについては触れなかったが、我が意を得たりというところで話が通じて嬉しかった。インドネシアの批評家からも、どうして日本はもっと自分たちの伝統やアイデンティティを意識しないのか、というど真ん中な質問が出て、最もこの場に相応しい、意義深い議論が出来そうだったが、時間がないのと、先方が英語を話せないために諦めざるを得なかった。ランチを食べ、午後のセッションも覗いたが、さすがに疲労が溜まっていたのでホテルへ一旦帰って眠る。その間にうっかりして、Rの出演する Emerging Choreographers のショーケースの初日を見逃してしまった。最悪。夜ロビーへ降りて行くと雷雨になっている。車で劇場まで移動。今日の会場はIKJから離れた所にある植民地様式の立派な建物で、中は小さめのオペラ劇場のようになっている。照明が薄暗く、外では雷の音がして、トップバッターの山田うんの、プリペアドピアノのような音が客入れの間から鳴っていて、映画のような、例えばダニエル・シュミットのような、極上のムードが立ち込めていた。休憩の時に尾形さんと岩渕貞太くんがいたので声をかける。ワンステージでは物足りなそう。終演後はRを山田うんさんとKさんに紹介して、車でホテルまで帰り、HとFと名前を思い出せないテックの彼女と四人で近所のカフェへ行って食事する。
7月21日。ビュッフェではまたRとA、P。午前中はRと、山田うんのマスタークラスを見学する。内容は主にレパートリー。インドネシアは本当に多様な人々が集まっているので、全くバラバラな体が同じ振りをそれぞれに解釈していくのを見ているだけで面白かった。それに山田うんのように、イメージからイメージへと奔放に連鎖していく振付は、技法や様式の上に成り立ったダンスとは全く違っていて、相当に新鮮だろうなと思った。少しだけ時間があったのでAのセッションを覗くと、イギリスにおけるインドネシア・ダンスの受容と再文脈化というような話をしていた。ホテルに戻ってから山田うん一行と合流し、国際交流基金ジャカルタ支部の所長A氏を囲んで昼食会。なかなか豪華な食事でハンパじゃなく辛いものも。そして食器が一々異様に重いのが不可解だった(コースターや椅子まで超重い)。午後は Emerging Choreographers のショーケースを見に行く。Aに呼び止められるとRとFがいた。会場ではMにも会う。インドネシアの若手ばかり5本。正直、インドネシア特有の「近代化」ということを考えに入れないと、とても近づけない。何ともコメントのしようがない。そしてそのこと自体、興味深く、この当惑もいずれ何らかの形を成してくるだろう。ホテルへ帰り、インターネットカフェでラップトップを繋げるか試そうと表へ出たらRに会った。夜の公演の前に食事の約束をして、ネットカフェへ行く。回線が細いため、膨大な量のスパムがシャレにならない。何しろ1時間以上もダウンロードが終わらない。こんなことでは実害だって出るだろうし、場合によってはスパムのせいで人が死んだりするかも知れない。Rとカフェのようなところで食事。Fについての苦言を呈してしまった。夜の公演の前にAと議論に。やっぱりカルスタの人は価値相対主義であって、ヌルい。愛と、欲望が、「ほどほど」でしかないのである。しかし相対主義というものについて考えざるを得ないのがインドネシアという空間でもあり、やはりジレンマに陥る。会場で去年シンガポールで会った振付家のAに会う。男のダンサーを探しに来ているとのことだった。この前下北沢で会ったばかりのYが来ていた。今日ジョクジャから来たとのことで、ぼくのセッションを聞いてもらえず残念。ダンスは三本。ベルギーのアルコ・レンズは秋に青山のビエンナーレでもやるらしい。AとPのデュオはオディッシーをベースにしたモダン。最後はインドネシアもの。終演後、インドネシア・ダンス界の重鎮Sに面会する。奥さんのAとは一年ぶり。車で日航ホテルまで行き、三人で遅くまでワイン。色々根深いところまでザックリとした話をする。クタクタになって帰る。
7月22日。朝のビュッフェでアメリカのAが、イギリスのAから聞いたらしく、日本の(ぼくのいうところの)「アンチ・スペクタクルなダンス」に関心を示している。ぼくは部屋で少し仕事をして、昼に外へ出て近所のカフェへ行き昼食。異様に長い時間をかけてサンドウィッチが出てきた。またネットカフェへ行き、大量のスパムをダウンロードしていると、サーバーがダウンして終了。仕方なくホテルに戻って原稿を書く。あまり進まず、夕方にかけて睡眠。ホテルのビュッフェで夕食にする。イギリスのAがいて、Sと、Sと、アメリカのAも来たので、日本のダンスの映像を少し見せて解説するがあまり時間がなく明日に持ち越し。車でまた劇場へ移動し、シンガポールのシアトリカルなパフォーマンスや台湾ものを見る。最後のインドネシアものは東ジャワから来ているとのことだが、生演奏つきでどことなくビートがアフロでファンキーな踊りだった。かなり盛り上がって閉会。劇場のロビーで打ち上げパーティーらしきものが始まったが、当然の如くアルコールはなし。飲み物は甘いフルーツ系の液体のみで、強烈な欠乏感を抱く自分に驚く。IKJ(大学)の前でも深夜3時とかまで学生がたむろしているが、あまりビールなど飲んでいない。シンガポールのグループ(Spell#7)の演出家のポール・レイ、昨日のアルコ・レンズなどにあれこれ話を聞く。Spell#7に出ていた女優のYとは去年シアターワークスのパーティで会っていたようだが、ぼくは忘れていた。ホテルに帰る。AとAが帰ってきて、今日の台湾のカンパニー(すごくありきたりだった)を見ながら「アンチ・スペクタクル」が見たいと思った、とか言っている。S、A、Aと四人でビールを飲みながら、クセナキスと高橋悠冶のことや、9・11とハリウッド映画のこと、ダンス・フェスの全体テーマ(今回は Freedom, Rules, Dance だった)とそこにおける会議の主題をどう連携させるかということなど、あれこれ喋った。
7月23日。みんな今日帰るので朝からあちこち挨拶に忙しい。ロビーでYから、ジャワ舞踊を習いに日本から来ているOさんを紹介される。さらにシンガポールのAのカンパニーの副芸術監督で振付家のEに会う。初対面でいきなりだが、Eは昨夜、自分の部屋に幽霊が出たという。夜、ベッドの脇に老人が立っていて、手を引っ掻かれたらしい。普通に真顔で話しながら怖がっているのでこっちも腰が抜けそうになった。前にも中部ジャワのソロで、自分と、別のもう一人が同じ幽霊を見てしまい、毎日二人で手をつないでホテルまで帰るということをしていたらしい。確かにジャワにはジャングルもあるし色んな猛獣も住んでいるし色んな民族が住んでいるが、だからといって幽霊も住んでいるなんて納得できるだろうか。Yは、自分は見たことはないが幽霊の存在は普通に信じているという。朝食の後アメリカのAの部屋に行ってPやイギリスのAも交えて、日本のダンスについての解説。反響は大きい。その後、国立博物館のことを教えてもらって、タクシーで出かける。彫像や、様々な地域の生活のための道具、装飾品、ワヤン、ガムラン、さらに江戸時代くらいに日本から伝わってきている磁器や、ジャワ原人など。IKJへ行って、Oさんの参加している踊りの稽古を見学。一応ビルの三階なのにネコが何匹も入ってきて歩き回っている。Oさんの解説がとても為になったが、とにかく知らないことが多すぎるとも思った。日本では、ヨーロッパやアメリカのことは一般教養というか普通の知識として流通しているが、アジアについてはマニアの世界でしかない。という事実を意識することすら少ない。昼食も食べていなくてあまりに空腹だったので、途中で失礼して、IKJの前の屋台でサテとナシ、エステー。ホテルに帰ってビール、ダラダラとパッキングしながらウトウトしていたら時間がなくなった。慌てて片付けて空港へ出発。運転してくれた人もスマトラのダンスをやっているという。「幽霊って信じる?」と聞いてみたら、子供の頃に白いトラの幽霊を見たことがあるから信じると言っていた。動物の幽霊というのも凄いが、どうして幽霊だと分かったのか聞いてみたら、目の前でボワーンと消えてしまったのだという。深夜の空港はあまり人気もなく、日本人が多い。帰りの飛行機はそれほど空いていなかったが運よく横になれる空席を発見。