ここ数日暑さがゆるんで過ごしやすい。夜はリトル・イタリーへ行って食事。車を通行止めにした道の両脇に賑やかなテラスが並び、人が大勢ひしめき合っていて、本当にイタリアに来たみたいな気分になる。シーフードが気前よく入ったパスタとワインで、8時頃から徐々に日が暮れていく雰囲気に浸った。
マース・カニンガムに深入りし過ぎて五日間も見続けてしまい、帰国までに図書館の開館日はあと数日しかないことに気づき、焦る。今回最大の誤算は、リンカーン・センターの工事で16ミリフィルムが全部見れなくなっていたことで、特に古い資料で見たいものが見れない。こういうことは何ヶ月も前からウェブ上で告知してもらわないと困る。
昨日はハンフリーやリモンやワイドマンが踊っている20年代末から30年代の映像をあれこれと見た。34年のベニントン・カレッジの様子なども記録に残っている。特に屋外の草の上で踊っているダンスは、アスコーナなどを想起させるイメージだが、とにかく奔放、無邪気である。形ではなく、体の感覚と意識で踊って、形はあとからついてくる。マーサ・グレアムが、行動主義心理学みたいなものに依拠して、心と体の連続という発想をイデオロギー化していくのに比べ、とにかく30年代は体、体、体であるように思える。全く単純なことしかしていない。まるで幼稚な思いつきみたいな振付を、ルーズに踊る感じが、たまらなく魅力的なのだ。
「[本]のメルマガ」vol.257で、忘れっぽい天使が福澤徹三という人の小説について書いていて、そこでギリシャ悲劇とホラーを重ね合わせているところが面白かった。

福澤徹三の小説は、ギリシア悲劇とよく似た構造を持っている。登場人物たちは、彼らを守ってくれていた「日常性」が徐々に剥がれ落ちていくのを予感しながらどうすることもできず、超現実的な力が破滅の運命の扉を開くのをただ待つことしかできない。小心者であったり、やくざな怠け者であったりする彼らが、運命の降臨を迎え入れる時だけは厳粛そのものの態度を取るのだ。その姿はある種の気高さを感じさせる。本物の現実というものが、合理性という衣を纏った「日常」とは別物であることを彼らは徹底的に悟り、言わば「知者」となるのである。読者はその様子に、深いカタルシスを得る。

「現実」(リアリティ)というのは、フレームが破られる時にしか現れない。ということは、つまり流動性のプロセスにおいてしか現れない現象だということになる。自然の中でリラックスして自分の感覚と意識で無邪気に踊っていた30年代の人々も、新しい「現実」に出会っていたのだろう。既成のフレームを破っているという意識をもっていただろう。
しかし30年代の人々は、リアリティなるものが流動的なものだと意識していたのだろうか。そうではなくて、何かしっかりとつかまえることのできる不動の「真理」を見つけたと考えていたのではないだろうか、と考えたくなる*1。そしてそんなものはないのだということ、どこまでも入れ子状になっているフレームが破れる時に「リアル」は現象するに過ぎないのだということを自覚してしまっているところに、現在の我々特有の状況があるのだとすれば、今日の我々にとってリアリティは「リアリティ」なのであり、本来的な帰属先のない「リアリティ」をあっちこっちへと転がす遊戯としてしかリアリティとは関れない。つまり何か隠された真理を開示するのではなくて、何か隠されたものが開示されるプロセス、運動を組織するという意識しか、表現者は持ちようがない。

*1:このように過去を単純化してそこから現在を腑分けする時、言説のレヴェルと実践のレヴェルを区別することは重要。実践と言説の対応の度合自体も常に変化する。