Village Voice にデボラ・ジョウィットのヤスミン・ゴデール評が出た。NYU時代の教え子ということもあり同情的な書き方だが、イメージが「ステレオタイプ」で「ビザール」、自分たちが演じている役柄をよく理解していない、と辛目の評になっている。現実のインパクトと、アートの強度を決して混同しないところに、「深読み」しないダンス批評の強みが出ているように思うが、記事の冒頭部分でマスメディアの報道に言及しつつ、そのようにして得られる情報と現実とを区別していないところ、すなわちメディア(媒介)に対する視点が欠落している所は弱みだろう。そしてゴデールもまた、この問題に関心を持っているらしいのではあるが、作品からはそれがほとんど伝わって来ないことも確かなのだ。
連日5時間はヴィデオを見続けていて、途中で気分が悪くなったりするようになってきたが、もう残り3日なのでめげずに突き進む。昨日はトワイラ・サープが65年から82年までの自作を振り返るドキュメンタリーを見てとても勉強になった。一人の振付家なり一つの時代なりを概観するには、ドキュメンタリーを探すのが一番手っ取り早い。欧米のものは何しろよく取材しているし、情報としての水準が高いので、普通に使える。アメリカには過去に Eye on Dance とか Dance:USA とか Dance in America とかいったレギュラー番組すらいくつもある*1
図書館の帰りに Barnes & Nobles へ寄る。もうすぐジャドソン関係の新しい(Sally Banesじゃない)研究書が出るというので、それが入ってないかと思ったのだが、今や批評家・研究者ともに誰もが避けて通れない「スター」の感がある Andre Lepecki の初の単独著 Exhausting Dance: Performance and the Politics of Movement が出ていた。最初の方を読む限りでは、ジェローム・ベルのようないわゆる「踊らないダンス」的なものを取り上げつつ、今日「運動」という観念と「ダンス」の連関がいかに自明視されているかを批判している。冒頭にはスローターダイクの、「運動」こそ近代において最も「リアル」とされる要素なのだという一文が引かれ、運動とダンスとの結びつきが比較的新しい考え方であるに過ぎないと説かれる。確かに運動が、モビリティとか、ノマディズムとか、今日そのまま無条件では受け入れがたいものになっていることは確かである。しかし、この先どう展開されているのかまだわからないが、とりあえず運動を身体から切り離してダンスを語っているところに大きな違和感を覚える。ただの運動でいいのなら映画だってモビールだって動物だって機械だって一緒なので、そこに身体が関ってくる時はじめてその運動はダンス(=生)になるのではないか。ともかく必要なのは、身体的な経験(「内的体験」)を分節化する道具立てである。例えば ...so the project of Western dance becomes more and more aligned with the production and display of a body and a subjectivity fit to perform this unstoppable motility. (p.3) というくだりなど、body と subjectivity が並列されているが、主体性ではなく「主体化」こそが問題なのだとすれば、ダンスはまさに主体化の作用と反作用の場であるに違いないのだ。

*1:NHK教育では今度の日曜に、今年4月に国立劇場でやったピナ・バウシュの『カフェ・ミュラー』を放送するらしい。情けなくて泣きたくなる。