今回のNYは三週間の滞在だったが、とにかく規則正しくライブラリーに通い詰めたので知人や友人とはほとんど会えなかった。そもそもお知らせメールすら流さなかったので、Jから「電話で相談したいことがあるんだけど」とメールをもらって「実は今NYにいるんだよ」などと返事して会うことになったりさえした。そのJは9月末から関西での公演のために来日するので、それに合わせて東京で一緒にイヴェントをやることになっている。はじめは付き合い程度のつもりだったがミーティングが盛り上がり、せっかくの機会なのだから利用して生産的なものにしようという気になった。Jの他にはACCへ顔を出してCやRと会った。時間は限られていてもダンスの話になるとつい長くなってしまう。
最終日はそのCに教えてもらったラルフ・リモンの Geography 三部作をチェックした。ほとんど早回しでざっと見ることしかできなかったが、特に第二作の Tree (2000)はかなり良く出来ている感じだった。アフリカ、インド、中国など様々な地域の人々が出てくるインターカルチュラリズム系のコンセプトで、個々のパフォーマーがかなりベタなキャラクターを演じつつ、胡弓の音楽でアフリカンダンスとか、インド人と中国人(実は日本人みたいだが)が一緒にオディッシーとかいった具合なのだが、そもそもステレオタイプな文化的アイデンティティをあえて身に引き受けるということの意味を考えさせられるところがある(おそらくそれはNYという場所の特性と多分に関係があり、実際とてもNY的な作品だと思う)。つまりアイデンティティというのは、「演じる」行為の対象すなわち「虚構」(フィクション)なのであり、それを互いに演じ合う時、それは虚構のキャラクターたちが戯れ合う一つの構築された空間を共有するということである。そしてそうすることによりかえって「演じる」ことを支える基底=「身体」が担保される。演じれば演じるほど、アイデンティティと身体との結びつきは自明さを失うことにもなる。こういう「虚構」の媒介を経ないで、個人は個人なのだとか、自分は自分であって国籍も民族も関係ないのだとかいってみても、外の人にとっては実はあまり説得力がない。本人にそのつもりがなくても日本から来た人は「日本人」に「なる」(される)。そしてNYに来た日本人(だけに限らないけれども)が時に極端にステレオタイプな日本人を演じてしまうのは、虚構を虚構として、つまり自己と他者をつなぐ媒介として利用することを学んでいくプロセスなのだと思う。それが、表面的な付き合いや理解に終始するということでは必ずしもなく、虚構の共有を経ることで無名の身体を担保する、という迂遠な手続きなのだということは、経験してみるまではなかなか理解できなかった。
昨日はキャロリン・カールソンの名高いソロ Blue Lady をチェックしたり(予想外に凄い)、ビル・T・ジョーンズの代表作と目されている Last Supper at Uncle Tom's Cabin / The Promised Land をチェックしたり(ジョーンズはやはり声がカッコいい)、1980年に The Repertory Dance Theatre という団体が行った初期モダンダンスの復元上演の映像を見たりした。ここではダンカンやデニショーンの他、ヘレン・タミリスなども見れて良かったが、この公演の合間合間に挿入されるナレーションをマーシャ・シーゲルが書いていて、そこで「ダンカンが初めてコルセットやトウシューズから女性の体を解放したわけではない。「自由なダンス」や「自然なダンス」を追求した最初の人というわけでもない。ただ、そうしたことを初めて公衆の面前で(publicly)行った人なのである」という一節があり、面白かった。つまり裸足で音楽に合わせて踊っていたような人はいつの時代だってそこら辺にいたのであり、ダンカンが画期的だったのはそうした個人的な衝動と近代的なパブリックとを出会わせた点にある、というわけだ。ここのところ表現主義のダンスをさらいながらぼんやり考えていたのは、20世紀初頭のいわゆる「身体の解放」的な言説が、フーコーが『知への意志』で批判した「性の解放」言説とパラレルではないかということで、シーゲルの指摘は「公演」という制度を「パブリック」(公共性)の形式としてとらえることを示唆してくれる。そしてパブリックの定義の問題は、日本におけるバレエや「現代舞踊」と、「コンテンポラリーダンス」との間の差異の重要な一側面を明らかにもするだろう。これは以前から考えていたことだが、日本の文化行政における「パブリック」は悪しき平等主義であり、「コンテンポラリーダンス」にとってはそうした「パブリック」は(幸か不幸か)もはや前提になっていない。
明日の朝の飛行機で帰国、15日の夜から白州へ。16日の神村恵の初単独公演が見られないことが痛いが、夏山の自然に浸るのが今から楽しみで浮き足立つ。テロ未遂の関係でJFKの警備がまた極端なことになっているらしく、それだけが最後まで気にかかる。