土曜の昼、舞台に森山開次が出てきて、すぐに「縮んでる」と思い、実際最後まで踊りは萎縮していた。それで気付いたのだが、ずっと前からダンスは「目より先に筋肉に来る」という風に思っていたのはもうちょっと正確に表現できる。つまり、人は網膜に映るものの全てを意識しているわけではない。他方、意識が取り逃がしている網膜上の情報に体が勝手に反応している部分がある。そしてその自分の体の反応を媒介にして、眼前の対象物を捉え直すということがしばしば起きる(というか何かを視認するということの始まりには、いつも周辺視野で、見るべきその対象に「気付く」ということが起こっているだろう)。だからただ目を皿のようにして凝視すれば何でも「よく」見えてくるわけではない。ダンスを「よく」見ようと思ったらむしろ目の機制を解除して、別働隊に任せてやることの方が大事かも知れない。森山開次が出てきて「縮んでる」と思う、それは森山の体のどこがどうだと視認するより前にわかる。自分の背中に突っ張り感が来る。すると眼前の森山は、背中が固いのか、あるいは単に緊張しているのか、肩が上がって前に出て固まっているのである。どの動きも、エネルギーが遠くまで行かないで、すぐに体の中心の方に戻って来てしまう。一方的な自己投射ではない。踊り手の体と自分の体の「比較」が起こっていて、意識が向こうとこっちを行ったり来たりする。もちろん、一方はとりあえず目で捕捉されているのに対し、他方はあくまでも「イメージ」の塊なのだから、この比較には想像力の働きが大いに関与している。単にフィジカルな比較や関係ではありえない。しかしダンスが何かを創造するとすれば、それはこの領域においてだろう。踊り手の身体が異形であったり特異である必要は別にない(むしろそういうものは、隔たりが大き過ぎるがゆえにかえって概念上で処理されてしまい易い)。形 shape ではなく、動き motion が、人々のもっている身体イメージを揺り動かす。そっちの方に重大な意味がある。
スパイラルから渋谷まで歩いて、GさんSさんOさんとミーティング。来年2月のイヴェントなのだが準備はやや遅れ気味で、気ばかり焦る。何事もやり始めると熱中してしまい自分の責任を重くしてしまうような。最後はぼくとGさんのみになり結局5時間以上やっていた。疲弊。
パナソニックのTV「ビエラ」のCM。小雪が床に寝そべってズームアウトして背後に巨大なTVが映り込んでくる最後の方のショット、小雪にポージングが施されていないのか、ディレクターにリズム感がないだけか、左脚の上に重ねられた右脚の置き所がいつまでも定まらず大変気持ち悪い。微妙にオロオロ動いている状態でどんどん画面は引いていき、小雪はかなり小さくなり、さらにもう一回脚が大きく動いて中途半端にブツッと切れる。びっくりした。
エルマガジン』がうどん特集をやっていて、もちろん映画と絡んでいるのだが、うどんは「グルメの世界では底辺だっていうのがずっとあるので、15年くらい前までうどん屋の大将は、職業を答えるのが恥ずかしかったらしい」(田尾和俊、「麺通団」)とか、面白い。つまりうどんが「底辺」を脱するのは冷戦終結後の90年代である。それで今日たまたまフジテレビでドキュメンタリー番組みたいなのをやっていて、ちょっと見てしまいつつ思ったのだが、うどんというのは何しろ「食感」が主で、味はダシが担当する。そしてとりわけうどんの食感とは口腔粘膜との接触であり、うどん職人の仕事とは界面(インターフェイス)のデザインなのだ。食感は味よりもダイレクトである。うどんはうどんによって何かを伝えない。その意味でメディアではない。売春婦が何も伝達せずにただ「経験」をもたらすのと同じように。うどんは、売春婦がそうであるのと同じ意味で、「身体」なのだ。