3月にブルックリンで血を吐きながら書いた原稿が載った Theater der Zeit 9月号がようやく届いた。日本のドメスティックな現象としての「コンテンポラリーダンス」(ぼくは英語で表記する時は Contemporary Dance ではなく Kontemporari Dansu としている)を舞踏との連続性/非連続性を中心にしつつ、ダンス史的文脈の中に位置づけたもの。哲学や思想系のテクニカルタームが註なしで頻出するため、わからない人にはわからない箇所がいくつかあるはずだが「政治と演劇の雑誌」を謳う Theater der Zeit ならOKだろうと思う。いずれ書籍化する企画が進行しているらしく、その際には先日ジャカルタで読んだペーパーを合体させ、より大きな文脈の中に Kontemporari Dansu を捉えた完全版にしたい*1。個人的に嬉しいのはハンス=ティース・レーマンさん(『ポストドラマ演劇』('02、同学社) [amazon])に訳してもらえたこと。去年の白州から生まれた縁。縁といえば、やはり去年オン・ケンセンと出会って、国外に向けて日本のダンスを説明するという機会を何度か得たこと、ACCで国外に出て時間を過ごしたこと、さらにはNYUのキャロル・マーティンに講演の機会を与えてもらったこと、一連のことが全部この原稿や、以降の仕事につながっている。原稿一本ということでは大袈裟だが、内容面ではそれくらい大きな、自分にとってのターニング・ポイントになったので、色んな人に感謝したい。
昨日またミーティングをして、その時に Dominique Fretard という人が2004年に書いた Danse Contemporaine: Danse et non-Danse, vingt-cinq ans d'histoires (現代ダンス ―ダンスとノン・ダンス、25年の歴史)という本を見せてもらった。冒頭に並べてある写真が象徴的で、右ページにガロッタ、左ページにジェローム・ベルが配されており、ガロッタのは数人のダンサーが様々な形を作って動きを連鎖させているのに対し、ベルのは裸の女が自分の下腹部の肉をつかんでじっと見つめている。両者の間には四半世紀の隔たりがあり、ダンスや身体への見方がこれだけ変わった、ということなのだ。「ノン・ダンス」という呼称は嫌いだけれども、日本だったらさしずめ、右ページに勅使川原三郎、左ページに白井剛か手塚夏子、というところだろう。つまりヨーロッパと日本の文脈は、絶対に何らかの形でリンクし得る状況にある。
今月末29日に東京で、NYから来日する Battery Dance Company を迎えたショーイングとパネルをやるのだが、日本からもゲストをということで、神村恵に出演をお願いした。何だかんだいってもまずは自分が見たいので。8月の『うろ』は本当に色んな人が見に集まったらしいが、信頼できる筋では「あくまでも種子田郷がメインであり、彼のイニシアティヴが強すぎた」とのことだった。今回はわずか10分のパフォーマンスだが、殺風景な空間で極北のフルコンタクトを見舞ってもらいたいと思っている。

*1:それにしてもこれだけの雑誌が月刊で出ているというのは全く羨ましい話である。日本では『舞台芸術』のように、大学がバックについていたりするのでもなければ到底考えられない。ことにダンスに関していえば数少ないメディアはどれも圧倒的にポピュリズム路線であり、『DDD』に至っては review のコーナーが批評ではなく記録写真で構成されている(文字通り re-view というわけか)。もっとも「政治とダンスの雑誌」が成立するほど批評意識の高いダンスが日本でどれほど行われているのかという問題もある。