大倉摩矢子の初日。「ラボ20」以来ゆっくり地道に変わり続けていたことは確かだが、今回はもう思い切り変わっていて驚いた。得意の粘着質はあまり出ず、動きはむしろ軽やかであり、全編に渡って風通しがいい。ありていにいえば踊りに幅が出ているのだが、ただお手軽に「色んなことやってみました」というのじゃなく、一つ一つが自分の体から出てきた技術的な裏付けを伴っている。今だからいえるのだが、これまでは要するに「上手い人」だったのだ。しかしこれからこの人は「舞踊家」になっていくのかなあと思った(なぜか「ダンサー」じゃなく「舞踊家」)。
「技術的な裏付け」という時の「技術」というのは、特定の体から切り離された(切り離され得る)メソッドや譜面のようなものじゃなく、あくまでもその人が体に対して何らかの執着を持ち続けて、挙句にどういうわけか形をなして来てしまったよくわからないもののことで、だからこの「技術」はその人の身体と連続している。そういうのが踊りを見ていて感じられるというのは、たぶん踊りの中でこの技術が再びその発生のプロセスをたどり直しているからなんではないだろうか。大倉摩矢子が赤ん坊のように仰向けになって身をよじらせる時に、背面と後頭部しか床に接していないのに、そして取り立てて遅い動きでもないのに、異様な粘りが出ているのを見たりすれば、何なんだこれはと思うし、しゃがみ込んで右腕が頭の辺りからヘンな角度で(心霊写真風に)ニョッと生えているように見えるのも、微かなさざ波みたいな均質な動きで体の形を変えていく中で不意に小刻みなブレが出て来るのも、どれも譜面や技を「上手に」実演してみせているのなどとはほど遠く、一々が、生きた大倉の体から生成されてくる「出来事」なのだ。だから、確かに舞踏の影響から出てきたものには違いなくても、今回の踊りに「舞踏」みたいな出来上がったイメージは全くといっていいほど感じなかった。
世には「シンガーソングライター」という肩書があって、これは自分で歌を作ってそれを歌う人のことだと思うが、何でこの人は作曲も作詞も歌も(時にはギターとかピアノとかも)全部自分でやるのだろうと思うことが時々ある。というかそれは、(作曲、作詞、歌のそれぞれの水準がアンバランスだというケースは最初から除外するとして、)あまりに何度も繰り返し歌われるので歌が「出来事」性を失ってしまうということなのだろう。何度も何度も反復されることで、曲が発生して来たプロセスが忘れられていって、後はただその時の調子や気分で色々と表層で微妙にニュアンスを変えたりしながら、飽きずに歌っていくだけ、みたいなことになってしまう。そしてその歌を歌う「権利」を独占しているがために自分が歌う、みたいなのが、最も不毛なシンガーソングライターの形態であろう。そんなことなら、無理に一人が作曲や作詞や歌を兼ね続けるより、むしろ古典や演歌みたいに色々な人にそれぞれの解釈で歌ってもらった方が幾分かマシかも知れない(もちろんそうなると今度は、純粋に作曲の質が問われるので、次々と歌い継がれる歌はごく少数ということになるのだけれども)。
コンテンポラリーダンス」も自分で振付を作って踊る人がたくさんいて、この「シンガーソングライター」みたいだなと思うことが多い。体が、体から切り離された(切り離し得る)アイディアや技を実演してみせているだけなもの。それを作ったのが自分だからというだけの理由で、それを踊っているようなもの。あるいは自分が踊っているから他の人にはない独特の「身体性」があるのだと、当たり前の事実に寄りかかってしまっているもの。そういうものと、大倉摩矢子のやっていることとは違う。体の中で地道に育ててきた「技術」が、結果的に一つの形となって、「踊り」として人々の眼に触れることになる。踊りの中で、技術はまだ生きている状態なので、舞台の最中でも何がどうなるかわからないところがある(実際には何も起きなかったとしても、スリリングなのだ)。こういう一切合財に立ち会ってしまった時、「踊り」を見たなと思う。間違っても「作品」を見たなとは思わない。