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読まなきゃいけないものはいっぱいあるのに、『LOFT』の公開もあって黒沢清本が相次いで出て、アマゾンから届いてしまって、読み始めてしまう。『黒沢清の映画術』(新潮社)[amazon]、ずっと手に入らなかった『映像のカリスマ』の増補改訂版(エクスナレッジ)[amazon]。映画なんてもう年に1本か2本しか見ない(それこそ2月に『LOFT』を観て以来何も見ていない)のだが。そういえばブレッソンの『シネマトグラフ覚書』('87、筑摩書房)[amazon]もめでたく復刊。古書市場は値崩れ、しかし図書館から盗む人もいなくなるだろう。出版社は発行点数をとにかく稼ぎたいのだろうから、どうでもいい新刊を作るよりもっと復刊に力を注いでもらいたい。先日は本屋で黒田亮『勘の研究』('80、講談社学術文庫)[amazon]が復刊になっていた。復刊ではないが面白いのは光文社古典新訳文庫というやつで、中山元訳のカントとか、亀山郁夫訳のドストエフスキーとか、中条省平訳のバタイユとか、安いソフトを上手く再利用している。セコい商売といえばそうだが、誰も読まないか、読んでもその日の内に忘れてしまうような本が洪水のようにあふれ続けるよりははるかに価値のある仕事だと思う。
土曜は吉祥寺でハシゴする。枇杷系は見ていて「人付き合いの苦手そうな人たち大集合」に思えてしまった。ダンサー同士でも観客に対しても、とにかく遠慮し過ぎ、気を遣い過ぎなために、見ている方までヘンに気を遣って顔が引きつってしまう。夜は井の頭公園で『森の祝祭』。白州に出ていたダンサーがこぞって出ていて、先日談話を担当させてもらったアーニャ、エニク、マリアにも再会。モスクワ在住のアーニャは日本がすごく気に入っているみたいだが、話を聞いているとその「日本」というのがイコール「自然」(白州)のことだったりするのでおかしかった。要するに色んな人といい出会いをして、いい経験をした、ということなのだろう。「場所」というのはそういうものではないか。
白州の時の談話は、今回はうまく行かなかった。申し訳ないが大失敗だった。去年は、夜の間にノートをまとめて、レヴューを主体に話したのだが、今回は前日の阿部公彦さんのお話が異常に面白く、どこか無意識に真似しようとしてしまったのが一つと、とにかく疲れていてあまり集中して準備できなかったのが一つ。何しろブルックリンから白州までは大変な道のりだった。まず、空港まで安く車で送ってくれる人を掲示板で探したのだが、お願いしたKさんがハイウェイで道を間違えてしまい、テロ対策で空港が非常警戒態勢というのにかなりギリギリに近くなってしまったり、さらにほぼ同時刻の別便で帰って成田で合流するはずだったMの飛行機が機材故障で8時間くらい遅れ、結局成田をレンタカーで出発したのは真夜中近かったりした。もちろん出発前夜はパッキングで徹夜していたから、二人ともヘロヘロであり、高速道路のパーキングで仮眠したりして何とかパワーを補給しながらたどり着いたのだった。これは無茶をしたなと反省。
阿部さんは英文学がご専門だが、とにかく面白く刺激的な談話だった。特にぼくに引っかかったのは「スペクタクルがスペクタクルじゃなくなる瞬間がある」という話で、二時間あまりの間に一見分散しているように見える話題を、ぼくはここを軸にして多くのことをまとめて捉えることができた。
「スペクタクルがスペクタクルじゃなくなる瞬間」というのは、阿部さんによれば、例えばダンサーが石を担いでいるのを見て「重そうだな」と思う時とか、動いていて突然草の上をズザッと滑るその音とか、階段の上に佇んだ時とか、鳥居をくぐって入っていく時とかのことなのだが、その「スペクタクルじゃなくなる」というのはどういう意味かと考えてみると、要するにそれが単なる他人事じゃなくなるということではないかと思う。スペクタクルは、自分の身体には関係ない他人事であり、眼前の空間で勝手に起こっている出来事である。それが何かのきっかけで自分の身体に対して意味をもつようになる時、いいかえればそこに何か関心(interest)が生まれる時、「スペクタクルじゃなくなる」のである。
しかしよく考えてみると、阿部さんが例に挙げているのは、担いでいる石が重そうであるとか、階段を降りるとか、単なる日常の中に普通にあるようなことばかりなのだ。なぜそんな普通の瞬間が特権的な契機たり得るのか。日常的な行為や出来事が、殊更に見る者の関心を呼び起こすのはなぜだろう。それはおそらく、日常の中でいつも感じられているような関心が欠如しているところに、それが現れるから、ではないか。つまり「スペクタクルじゃなくなる」前には、そもそもスペクタクルが成立している必要がある。スペクタクルは日常生活の中にはない。スペクタクルとは、関心に由来する意味が欠如した出来事であり、日常とは利害関心に関わる事柄や対象が無意識に取捨選択され、結果的に身体を意味の充満した環境の中に埋没させている状態のことだ。劇場に代表されるスペクタクルの制度(「何もない空間」)は、そうした日常的な意味を一旦システマティックに消去する。そこで意味が再び取り返される時、それが身体的な体験になる。ダンスが「見る」ものではなくて「体感する」ものなのだとすれば、それは全部ここに関わってくるだろう。
しかし劇場という装置の、便利であると同時に厄介な点は、「何もない」(ことになっている)フラットな空間が予め設えられてしまっており、そこで意味を生じさせるための一切は外から人為的に持ち込まれねばならないということ、そして日常生活を満たしている意味が失われるに至るプロセスが制度的に隠蔽されてしまい、知覚されにくくなるということだろう。その点、白州のような屋外空間でスペクタクルを成立させることは、劇場と比べてはるかに大がかりな、ダイナミックな意味の消去を伴う。どうやって意味を消去してスペクタクルを成立させるか、そのアプローチは多様であり、かつ、決定的な方法はないのかも知れないが、阿部さんの談話の中に「どのようにしてダンスは始まるのか」という話題があって、それと関連してダンスは「通り過ぎていく」ものだという話が出た。例えば祭囃子が遠くから聞こえてきて、徐々に踊る人々の集団が視界に入って来る。これは、自分の手の届く範囲、すなわち関心の射程範囲の外から、人が入って来るということだ。ただしまだ自分との関わりは稀薄な状態で、これがだんだん近づいて来るにつれて、何か関係が芽生えてくるように感じられる。このような距離で目の前に人が現れるというのはどういうことか。まるで鏡がスッと差し出されるのに似ている気がする。常に自分の視野よりも手前にある、経験の固まりとしての身体が、外へと吸い出されて視界の中に据え置かれる。劇場ならばここで客電が消えることにより、自分の身体の視覚像は決定的に消去され、一方向的な視線の強度を支えることになるだろう。これがスペクタクル的な状態だとすると、そこから何かのきっかけで身体的な意味が再び現れ、自分の身体がつかみ直される、(通常あまり長くはない)時間が訪れる。その時間が過ぎるとまた身体的な意味は失われ、一方向的な視線とスペクタクル的な状態が戻って来る。再び何かきっかけがあれば、同様の過程が生じる。この往復運動は、目の前の踊り手がその場を去り、いなくなることによって最終的に完了する。
こんな風に考察してきて思ったのは、劇場のような自明化した制度は確かにスペクタクルだが、眼前の人への一方向的な視線というのは「スペクタクル的な状態」であっても、それ自体で完結したものではなく、むしろ「スペクタクルじゃなくなる」ための重要なプロセスの一部をなしているということだ。受動的に「見る」という契機を経ることで、ただ普通の意味で能動的に生きているだけの生活の水準とは違う、しかしあくまでも身体的で能動的な経験に辿り付くことができる。これに対して、スペクタクル的なものを排除してしまいたいという考え方もある。レイヴなどでは、模倣の対象(鏡)がないので、目をつぶって内部に沈潜していたりする。肌で周囲の気配は感じられる、という程度まで外部は縮減される。もっと行けば、ダンスじゃなくて薬とか、外部のない内部への執着に終始することになるだろうが、そこまでは行かないとして、このギリギリまで縮減された外部、稀薄化された他者性をあえて攻めるということがやはり今日では有効なのだと思う。スペクタクル性をギリギリまで削ぎ落とす。あるいは、あからさまにスペクタクルとして自己を現さずに、気配だけで密かに立ち働くというアプローチも考えられる。究極のアンチ・スペクタクルなダンスは後者だろうが、視覚的な契機を経ないことで、観客(?)の手持ちの身体イメージ(きわめて視覚的な)にはあまり干渉できないという弱みもある気がする。
ところで、関心がどうしてダンスと関係あるのかという問題は、スペクタクルのそれとは別に残されている。担いでいる石が重そうである、階段の上に佇む、というような時、それは体勢がある活動や動きに向かって傾いているということを意味するだろう。そしてその傾きが、「流れ」(flow)を生み出す。この「流れ」(flow)さえあれば、何でもいいのだと思う。世にいわれているダンスとは、この「流れ」を、意味のある行為とは違うところに生み出そうとすることではないか。19世紀にクライストが発見し、20世紀にリモンや、スティーヴ・パクストンらが方法論化した主題、すなわち「重力」はこの「流れ」の最も典型的な要素の一つに違いない。他には何があるか。重力のヴァリエーションとしては、放物線があり、さらにはバウンド、そこから反発へと発展していくだろう。重力はまた引力とも関わっている。衝突、すなわち対立する力が互いを消滅させて起こる急激な停止。摩擦による減速。波のような反復。持続と切断。速度とそのコントラスト。重層化。ポリリズム。ただしセリー音楽がやったような反転形や逆行形は、何らかの「流れ」に適用可能な形式上のヴァリエーションではあっても、「流れ」を生む条件ではない。回転は「流れ」か?遠心力はそうだろう。硬直したり溶解したりというような、密度の流動的な変化(あるいはコントラクションとリリース)も「流れ」る。こういった一連の自動的な運動をさらに複雑に組み立てたものが、音楽であり、映画であり、ダンスであるだろう。その組み立ては単に自動的な質だけを狙っているわけではないが、あらゆるレトリックは運動の「流れ」と無関係に行われるべきではない。これを忘れると効果のない(=無内容な)形式になってしまう。ポワントなど、バレエにおけるバランスの制御は、転倒・落下とそれへの抵抗という相反する「流れ」を拮抗させるというレトリックである。矛盾する二つの安定(静止)の極の間を行ったり来たりすることがあるとすれば、その往きも帰りも「流れ」だろう。
白州ではD、J、Mにも会ったし、KさんとXも来ていてビックリした。夕方にはKさんの車に四人で乗って近くの温泉浴場へ。Kさんは日本人だが半分以上バリ人で、車の中ではガムランがかかっているのだが、ちょうどお盆の終わりで送り火を焚いている人を見かけると、バリの人々が一日に何度もお供え物をしている姿と重なり、日本とバリがいきなり地続きに感じられて面白かった。世界観の問題。