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『黒沢清の映画術』(新潮社)[amazon]は、途中からはもはや止まらず、メモを取ることもできなくなったまま最後まで読んだ。そのまま『映像のカリスマ 増補改訂版』(エクスナレッジ)[amazon]も全部。散乱したトピックを拾い集めて整理したいが、中でも特に、黒沢清があちこちで連発する映画の「面白さ」というのは、ダンスとの関連でやはり気になる。
映画はいつも「商業性」と「芸術性」の狭間に立たされている。そしてスタジオシステムの中でいかに「面白い」映画を作り出すかということに腐心したのが戦前から50年代くらいまでのハリウッドの(「職人」的?)映画監督たちであって、しかしこの「古典」期はもう過去になってしまった、という認識が黒沢清のベースにはある。しかも冷戦の崩壊とともに資本主義=ハリウッドの勝利はいよいよ決定的なものになった(『映像のカリスマ』301頁)。そこに同化するか、反発するか、という軸を超えたところにいるのがゴダールであるらしい。
細部はともかく、「面白さ」、すなわち「関心 interest」というものを、映画にとってもダンスにとっても外せない要件として仮定してみると、映画史とダンス史を比較して考えてみたいという思いに駆られる。事実上、この二つのジャンルの歴史はほぼ同じ100年前にスタートしてもいるわけだし、50年代くらいまでは主にアメリカで育った点も似ている。
「面白さ」、「関心」について、古い竹内版『美学事典』ではほとんど触れられていないが、佐々木健一『美学辞典』('95、東大出版会)[amazon]は「美的態度」の項でかなり詳細に取り上げていた。要するにカント流の「無関心性」の美学は、関心(快楽や善、有用性に関する判断)というノイズに惑わされない純粋な趣味判断を規範化する。こういう、例えば「鑑賞」みたいな、まっさらだがこわばった精神状態でもって何か有り難い(らしい)高尚な作品をじっくり味わいましょうみたいな振る舞い方に対して、何かが「面白い」と思う時というのは、自分から面白さを探し出そうとする以前にその面白いモノの方からこっちへつかみかかって来る。この作用の向きの違いが重要なのである。
そもそも、無関心的な態度がある対象に向き合おうとする時、その対象はいったいどんな関心によって選び出されるのだろう、と思う。ぶっちゃけていえばそれが「有り難そう」「重要そう」に見えるからではないか。要するにどこかに権威が想定されて、そこに沿う形で「正しく」審美眼を育てて行こうということなのではないか。古典的な教養の観念が成り立っている内はいい。しかしこういう、どこか知らないところで決定された価値に人々が振り回されるというようなことが、本当に深刻に不毛化したのが例えば20世紀以降の美術の世界だった(である)気がする。ダンスは、少なくとも可能性としては、そういう回路から切れることができると思う。「面白さ」に基礎を置くなら、「効果」が全てなので、隣の人と合意をとろうとすること(主観的普遍性、というか普遍志向性)は必要ない。
しかし黒沢清がいみじくも「『面白さ』の帝国」なんていう言葉を口にしているのを見ると、この「面白さ」の方こそ実は今最も危うい領域なのだと思えてくる。カント的な美的判断がもっているヴェクトルとは逆に、むしろ普遍の方が先に資本に掌握されてしまっているのだとしたら、そしてそんな悲惨な状態にあっても、人々は「面白さ」を求めることだけは止められないのだとしたら、抵抗の手段は、「面白さ」の主観性を磨きまくり、危険なまでに尖らせること、なのだろうか。