「三人の男の振付」なんていうタイトルで、ジェンダー絡みの問題提起も何にもないという、まさに日本のダンスの知的貧困を象徴するような企画でありながら、フタを開けてみれば三本ともそれぞれ実に手応えのある内容で、こういうのは何だか悔しい。首尾よく男児が生まれて問題がほぼ消滅した皇室典範みたいである。とりわけ、三者三様に次のステップに向かっているのが見られた点、この「プロデュース」という仕事に敬意を払わざるを得ない。「持続」がなければ「変化」も生まれようがないのだから、チャンスはなければいけない。中でも、梅田宏明は変わった(正確にいえば、2004年に初演された作品の今回の再演によって「変わった」のはおそらく梅田よりも梅田に対する日本の観客の認識の方だろう)。勅使川原っぽさがほとんど消え、その代わりにありとあらゆるストリート系の動きを複雑に組み合わせている。ポッピングだけじゃなく、胴をうねらせてリズムを重く取るヒップホップの動きとか、古典的なロッキングとか、やがてノイズなのに音ハメまで始まり、後半はダウンビートにもろにハメていく。コンテンポラリーダンスの文脈にヒップホップがあまり浸透していない日本では、むしろ『少年チャンプル』みたいなシーンに出て行った方が、(ポストモダン風の)修辞的な筆法の面白さが的確に評価されるのではないかと思った。鈴木ユキオは、普通の観客にとってはどうなのか知らないが、とにかく一つの代表作といえる。何だか全くわからないが、あまりにも得体の知れない何かである。わがままな美意識が、信じがたい空間造形力で支えられている。時間的な構成をもう少しうまくやって、親切に見せれば、観客もあっさり説得できてしまうだろう。そう思うと想像するだけで怖い。遠田誠も、大きく変わった。というか、こういう「私」なり「生活」なりをぶっちゃける傾向は以前から色々な人がやっていたが、先日の大橋可也を見た後だけに、この動向はこれから一つのテーマになって行くのではないかと思った。しかし今回の遠田の作品は、やはり大橋可也が(完成度は犠牲にしつつも)遠田誠や森下真樹の三歩も四歩も先を考えていることを改めて実感させることになった気もする。大橋はあくまでも生活者の水準からスペクタクル(あるいは「舞台」)というものを批評しようとしている。遠田の場合は、シニシズムが行き着いた果てに「私」の語りが始まっているのであって、「私」をスペクタクルの様式のもとに包摂して満足しようとしてしまう。ダンサーが自分の半月板の怪我の話をするとか、こういうものはNYでも散々見た。なぜ観客がダンサーである「私」(というか「あなた」)の私生活に興味をもたなければならないのかがわからない。大橋の問いは、もっと普遍性がある。舞台上の「私」を見せるのではなくて、身体を抽象化して、舞台上の出来事を客席に座っている一人一人の問題へと転化させようとする。射程の深度の差は歴然としているだろう。ただ遠田の場合、客席が沸いた最後のタクシーの、本当に凄かったポイントは、タクシーの動きまでが見事に振付けられていた点だと思う。こういうことはテント芝居でもやらなかっただろう。いつもダンスを見ていて思うのは、ダンスを見る観客の体はダンスからある種の影響を受けていて、やがて舞台が終わってこの人たちが街に出て行くと、何かのウィルスが拡散していくようにダンスが世に放たれることになるのだなということで、このタクシーの場面も、ダンスが劇場の外に漏れ出していく感じが何とも禍々しくて良かった。「ダンス」ということに関していえば、大橋は何だかんだいってもどこまで本気なのかよくわからないし、「ダンス」を標榜する必然性もあまり感じない。そこら辺がこれからの両者のアプローチの違いになっていくのかも知れない。
少し時間が空いたので、珍しくダンスを見に来ていたMと麦茶を軽くやりながら、先日のMの舞台のこととか、最近たまっていた疑問など。ソロとグループとでは、同じ「ダンス」と呼ぶのはおかしいと思われるほど、別のものであるということ(これはモダンな日舞のグループ作品などを見ると特にそう思う)。ダンサーと振付家の欲望は、一般に考えられている以上に、本質的に異なっているということ。振付家は、観客に対して何かを見せたい、仕掛けたい。しかしダンサーは、踊りたいのであって、それは何かを見せたいとか、伝えたいとか、仕掛けたいとかいったこととは、必ずしも関係がない。見る側としても、踊ってほしいし、自分の見るそれがいい踊りであってほしいとは思うけれども、いい踊りを「見せて」ほしいとは思わない。というか、たとえ「見せて」いるような種類の踊りであっても、究極的にはそれは踊り手自身の中で争われる問題であってほしい、という気がする。うまく言葉にならないけれども。それから、毒のないダンスはつまらないという話。「毒」は、字義通りには肉体に関わるものだが、ダンスに含まれ得る「毒」とはもちろん精神に関わるもので、いくらダンスが体と体の関係だといっても、フィジカルな経験を通じて、精神的なダメージを受けたいと思う。あと、鈴木ユキオに関連して出た話なのだが、舞踏はダンスなのか、ということ。あるいは舞踏に含まれる全てが、ダンスに回収できるのだろうかということ。これについては、どこかで似たような文章を読んだなと思い、調べてみたら、中村文昭『舞踏の水際』('00、思潮社)[amazon]の中に、「舞踏家はブトーダンサーか ブトーイストか」という短いテクストがあった。「舞踏は、果して舞踊なのだろうか?」「[土方は]舞踊とそのシステムを破壊し、拒絶しただけでなく、積極的に舞踏体と呼べるカラダの様々な秘儀や様式を創造していった」「舞踊はすぐれて舞踏であることはあるが、舞踏はかならずしも舞踊としてすぐれてある必要はない」云々。中村の論の全体は、やや精神論的な方向へ傾きがちなのだが、基本線としては賛成できる。
麻原彰晃の死刑が確定して、坂本弁護士一家の遺体発見現場に同僚たちが集まり、「麻原の死刑が確定したよ」と報告しているグロテスクな光景をニュースで見た。どこかで始まった狂気が、消えずに形を変えてそのまま循環している。