前に読みかけて途中で止めてしまっていたのだが、中村文昭『舞踏の水際』('00、思潮社)[amazon]は面白い。というか、ある時代の人々が共有したであろう信仰の内容が真摯に書き留められてある。「[土方巽にとって]あくまでも信じるにたるものは肉体一つで、それ以外は眉唾ものという素朴な実感の真偽の問題である。この闇の立場からはキリスト教はもちろん世の社会主義者たちや民主主義者たちのカラ騒ぎは虚しいものであったと言える。[…]自然の怖るべき仕打ちに比すれば文明の一形態である廃墟は砂漠の中のオアシスのように生を救助し、保護してくれるものであったのだ。廃墟は人間的な余りに人間的な歴史的悲劇の結果だが、自然は悲劇とはほどとおくどこまでも非人間、非歴史のヌキミの悲惨さそのもので、どこに誰に抗議しても無意味な沈黙を人に強要する。資本主義だろうが社会主義だろうがファシズムだろうが、その体制は、その中で生きる人間にそれぞれの尊厳を人間的な形で約束する余地がある。しかし、土方巽が肉体一つによって立つ自然の暴力、死、非情は、結局、文化の外にすてられていて、しかも、一切のヒューマニステックな尊厳を認めはしない」(21〜22頁)。