要するに眼前の仕事からの逃避衝動を糧としているに過ぎないのだがこれまで『音楽舞踊新聞』に書いた記事の大半(全部ではない)を「ダンス・レヴュー」としてアップロードした。今まであまり気が進まなかったのは、一つには業界紙、しかもクラシック音楽とバレエおよび「現代舞踊」関係が主な購買層である媒体に書いたもので、ウェブに出すにはちょっと気恥ずかしい書き方になっている記事があるのと、やはり紙媒体そのものが少しでも部数を伸ばすようになってほしいという気持ちもあった。しかし書き手としてのスタンスに結構振り幅があるのも確かで、欧米の日刊紙に載っているようなタイプの単なる「レヴュー」から、少し突っ込んで論じているものまで様々あることだし、どれもそれなりに労力を傾けて仕上げているので、せめてもう少し多くの人に読んでもらいたいというのも本音なのだった。本当に気に入っている出来のものはごく僅かしかないし、それも古くなればやはり消したくなると思うが、当面少し溜まる毎にアップロードしていこうと思う。
それにしても先週のイデビアンには驚いた。黙示録、という言葉が頭をよぎった。過去のある時代には映画およびダンスが特権的に専有していた「運動」=スペクタクルが、民主化と、価値相対主義ポストモダニズム)を経て、日常のTV化、すなわちスペクタクルの日常化へと至る。「なにかあったときのために いつでも準備をしてい」る「補欠」、それは常に何にでも動員可能なフレキシビリティ、純粋な力、すなわちダンスそのものの謂いであって、人はもはや踊れば踊るほど自由をシステムに売り渡していくことになる、そんな陰惨なヴィジョンが、ホラーすれすれのギャグで描かれる。「表象」の水準で闘えるような、安全な「外部」はもうないから、あとは身体の水準においてグローバルな「内戦」が闘われるしかない。しかし外部なき「内戦」って、結末を迎える時が来るのだろうか。
日曜はポタライブに行った。ずっと前から気になっていたのだが、行って良かった。最初に吉祥寺駅を出発していく辺りでは、自分たちが周囲の人々からどう見られているかということばかり考えていた。黒沢清の『大いなる幻影』の、チェ・ゲバラのTシャツを着た若者の集団が頭に思い浮かんでしまった、というのがちょっと恥ずかしいが正直なところなのだ。雑踏から離れて行くにつれ、ゆっくりとした歩行の速度のせいか、意識が「時間」の感覚へと向かうようになっていき、案内人である岸井さんの口から語られる地域の歴史=時間と、自分が体感している時間とが何となくつながったような、あるいは少なくとも関係づけられたような気がした。それは逆にいえば、「現在」を離脱する、超えるということでもある。