木曜、展覧会と撮影のために来日しているヴィデオアーティストのMと会う。数えてみたら8年来の結構長い付き合いになっている。この前作っていた、手塚夏子が主演のスーパーマーケットの作品も見せてもらえたのだが、今回撮影したのはパラパラのダンサーを山梨の山中まで連れて行き*1、森の中で踊ってもらうというもので、人工的なものと自然とをぶつかり合わせるのがコンセプトらしい。この2人の若い女のダンサーの水準は高く、四肢と胴が信じられないくらいキレイに分離していて顔の表情も全く動かず、それでいて奇妙なニュアンスに富んだ素早い動きをきわめて機械的に反復する。ぼくにとって何がいいのかさっぱりわからないものの一つに「アバター」というやつがあるが、あれに似た感じで、つまり緻密に細部を作り込むのだがどこまでも体系化された記号の組み合わせに終始している(「記号」とはそれが表そうとする以上の細部を捨象しようとした表現のことである)。現場では音楽をかけて踊ってもらったらしいが、作品は音楽なしで、ダンサーが踏みしめる枯葉の音や風の音など自然音のみ。
話していて面白かったのは、Mにとってスーパーマーケットと森とは対をなすモティーフで、つまりどちらも様々な痕跡=記号をたどって狩猟を行う場でありつつ、一方は人工的、他方は自然なのだが、彼に言わせれば森は、スーパーマーケットがそうであるように、一つの「究極(limit)」である。スーパーが究極的な人工であることはまあわかるが、どうして森なのか、人工的なもの(文明)の対極としての自然を考えるなら砂漠とか海を思い浮かべるのが一般的だと思うけどと聞いてみたら、人工的なものと自然との間の区別というよりも未来が予測可能か予測不可能かというところが自分にとっては重要で、砂漠や海は、そこに人間が放り出されたら干からびるか溺れるかして死ぬしかなくて結果が見えているからむしろスーパーマーケットに近く、森は遠くも見渡せないしどんな生き物が出てくるかわからず、また全体がゆっくり時間をかけて成長していたり腐りつつあったりして、最も予測ができないということだった。ぼくなりに咀嚼すると、この区分は観念的になされているのではなくて、あくまでも経験的に(経験の可能性の範囲内で)なされている。
あとどういう流れでだったかわからないが、キューブリックが『シャイニング』は楽天的な映画だと発言したことがあって、それは「死後の世界があるのなら死は怖れなくていいことになる」かららしい。黒沢清は『回路』で、人間が幽霊になることもできずにただの壁の染みになって永遠にこの地上に縛り続けられるというホラーをやったと話したら、でも本当の死はただ純粋に意識が消えることで、壁の染みどころじゃなく全く単なる無だよね、ということで、要するに恐怖(ホラー)というものは結局は体験(「無」の)じゃなくて何らか横道に逸れた表象の次元に尽きるのではないかと思ったりした。ちなみに永遠に続く生というモティーフは吸血鬼映画などでよく出てくるが、エイベル・フェラーラの映画では永遠に繰り返される日々に疲弊した吸血鬼が最小限の活動と最小限の栄養摂取(吸血)とで生き続けられるよう工夫しているさまが描写されるという。アガンベンが『開かれ』で書いていたフォン・ユクスキュルのダニのことを思い出した。
他にも色々あったが忘れた。

*1:一人は北海道、もう一人は京都から。パラパラは全国区だったのか、それともブームが過ぎて東京から地元に戻ったのか。