寒くなって来ると風呂に浸かるのが気持ち良くなる。なぜ風呂が気持ち良いのかはわからないが、この気持ち良さは事実サルでもわかる。とはいえ、のぼせて来たので半身浴に切り替えて少ししてからまた浸かったりするということは、サルにはないのではないか(たとえ、熱いので出たら寒いのでまた入る、というような、状況への直接的な反応が連鎖してしまうようなことがあったとしても、それを自ら見積もって意識的に行うことはないに違いない)。あまつさえ水風呂などという屈折、つまり質としての「温かさ」の経験を量に変換した上で故意に逆のヴェクトルへと向かって近い未来における快楽の反復を準備したり、そこからいつの間にか「冷たさ」そのものを快楽としてしまうといったような倒錯はいかにも人間的だ。つまり自己の味わう快楽を再帰的に捉え直すことを通じて、それを現に与えられている以上に増幅しようと考える。この過剰な快楽への欲望が人間と動物を、その最も分かち難いと思われている水準(快楽という水準)において、分かつのではないかと思う。逆にいえば、一定の快楽に満足して、不満(積極的にいうなら欲望)を感じなくなったら、それが動物なのである。
今日は有楽町で、ガリン・ヌグロホ監督の映画『オペラジャワ』を見た。インドネシアコンテンポラリーダンス関係のダンサーがたくさん出ている“ガムラン・ミュージカル”で、主演がマルティヌス・ミロト、その敵役がエコ・スプリヤント。ジャワ舞踊がたくさん見られるが、男の踊りは本当にポッピングみたいである。去年9月にジョクジャカルタへ行った時、近くの村の市場で行われていたロケを見学させてもらって、お茶を飲んでいる時に背後で撮影が進行していたので、もしかしたら背中が映っていやしないかとちょっと期待していたのだが全く映ってなかった。というかその時の市場のシーン自体が全然使われてなかった。ミュージカルとはいっても、現代アートとかも使ったシリアスなもので、映画でこんなことが可能なのかと驚いてしまうような、神秘的な(としかいいようがない)表現が凄かった。そんな中でグッと来る台詞(歌詞)が、例えば性的な誘惑に耐え切れなくなりそうな人妻がうめくようにして言う(歌う)、

私はもうおしまいだ
善と悪の区別がつかなくなった

など。バリのような賑やかなガムランとは違い、のんびりとしていて何とも薄暗いドローン系に、あてどもなくさまようような歌唱が乗り、これが2時間の間ずっと流れてくるので、終わって銀座を歩いていても脳がふやけていた。
銀座で長い会議をした後、八重洲ブックセンターへ行き、Gさんお薦めの野田秀樹+鴻英良『野田秀樹 赤鬼の挑戦』('06、青土社)[amazon]と、やっと出たジャン=リュック・ナンシー、マチルド・モニエ『ダンスについての対話 アリテラシオン』('06、現代企画室)[amazon]を買う。「意味の外部に幾らかの意味をなすこと」について。

ある文が幾らかの意味をもつのは、文が完全でひとつの意味作用を伝えた場合とされる。「地球は丸い」、ここには明白な意味がある。意味から脱出したいという欲望は、このように意味を閉じ込めて、完成させることから逃走したいという欲望です。「地球は丸い」、それで物事は完結して、われわれは堂々巡りに陥る。意味は決定=停止される、われわれも一緒に。意味とは、手っ取り早く言えば――どう言えばいいのか――正確には死ではなく、石化、麻痺なのです。しかしながら、この命題――「地球は丸い」――が一点の曇りもなく真実であるのではない、ということをわれわれは知っています。それは地球に関するすべての経験に対して真実なわけではない(19頁)