土日で舞踊学会「ポストモダンダンス特集」終了。早く次の仕事にモードを切り替えないといけないのにエンジンがなかなか冷めない。久々の学会発表は持ち時間15分という枠の中にムリヤリ詰め込み高速ですっ飛ばして原稿を読み上げる結果になってしまったが、内容的には評判は悪くないようで調子に乗りそのまま論文にブローアップし始める。ちなみに今回の発表は『plan B 通信』の連載の(4)(5)辺りでスケッチしたものが元になった。

Some may say the avant-garde has long been over. Be that as it may, the idea of it continues to inspire and motivate many of us with its inducement — in the words of playwright/director Richard Foreman — to "resist the present."

(前衛などとっくの昔に終わっていると人は言うだろうか。そうかも知れない、だが前衛の思想はなおも多くの人々を刺激し、駆り立ててやまない――劇作家/演出家のリチャード・フォアマンの言を借りれば――「現在に抵抗せよ」と。)

イヴォンヌ・レイナー

それにしてもポストモダンダンスと一口に括られている振付家/ダンサーたちの資質はそれぞれ全く違っていて、今のところぼくの思うに振付家というか作家として最も重要なのはレイナーとパクストンである。トリーシャ・ブラウンはこの点ではちょっと落ちるのだが、ダンサーとしていいのはブラウンとパクストン。この「ダンサーとして」というのが実はかなり厄介というか大事だったりもして、例えばブラウンの『Accumulations』などは、普通は短いフレーズがどんどん「累積」していくというアイディアのところに注目が集まるけれども、他方でブラウンの独特の動きのスタイルというものもあり、柔らかい球体関節みたいなのを「ミッ。ミッ。」と押し込んだり、さりげなく突き放したりするあの動きの質感はあまりに語られなさ過ぎる気がするし、『Spanish Dance』などのあのダンサーたちが後から後からどんどんぶつかって密着し合う体と体の弾力のあるムチムチとした響き合いと、黒沢美香の『クワイ河マーチ』の間には構成としての見た目以上の近さがある。レイナーの『We Shall Run』にしても、ジル・ジョンストンなどは「ただ走ってるだけ」という表層の奇抜さにとらわれて、ただのジョギングを装いながら複雑なスコア(コンポジション)を遂行していったダンサーたちの動きのディテールに注目しない。だからできることならいつか映像を見てみたいと思うのだが見つからない。ないのかも知れない。ベインズのDemocracy's Bodyはジャドソン派の三年弱の活動を微に入り細を穿って調査したドキュメントだが、丸ごと一冊読んでもそういうことはほとんど書かれていない。今のNYの批評でも割とそんなものだから、要するに誰も「ちゃんと見てない」ということなのだろうか。あるいは振付家/ダンサー自身もあまり自覚してなかった、という可能性もある。そうじゃなければブラウンなんて、あんな遠くからしか見えないようなシチュエーションでやったりしないのではないか。しかしこのことは、学会二日目の厚木凡人氏のトークで、厚木氏が当時のダンサーたちの動きの質感というか「肌合い」について触れて、「パクストンなんて歩いてるだけでダンスだった」と話しているのを聞いて、やっぱりそうか、という風に思ったのだった。「歩くだけ」ということをやったからジャドソン派は前衛だったんじゃない、「歩くだけで踊りでもある」ということをやったからジャドソン派はダンスの定義を拡張することに成功したのではないか。つまり何か例えば妙な粘りのある歩き方とか、微かな左右の揺れを伴った歩き方とか、少しでもやり過ぎれば「ギャグ」か「ダンス」になってしまうかも知れないような「色々な歩き方をして遊ぶ」ということを、もの凄く微細で地味なレヴェルでやっていたのではないか。実はこれが去年NYへ行く前に期待していたことの一つだった。どこから想を得たかといえば黒沢美香からだ。ただ歩くだけでもそこには色んな可能性の幅があり、それでもって遊べるということ。しかし実際には当時の記録映像はそれほど残されてなくて、あっても期待したほどダンス的には見えなかった。ただ時々、ブラウンにこれを感じることがある。ところが、厚木氏はパクストンもそうだったと言った。『State』や『Satisfyin' Lover』は、もしかしてダンスだったのかも知れない。上演単位ではなく作品単位で大雑把に概要を記録しただけのベインズの文章などこの水準では全く意味をなさない。
ともあれジャドソン派も、振付家なり作家なりが、この動きの質というところをもっともっとダイレクトに扱うことができていたら、さらに遠くまで行けたんではないかと思う。「歩いてるだけ!」とか「走ってるだけ!」とか「壁を歩く!」とかそんな薄っぺらなことではなく……しかし一種の「読み」として、こういう水準まで突っ込むことはできる。「壁を歩く」にしても、「視覚が90度ズラされる」という風にではなく「90度ズレた方向に重力がかかった身体」という風に見る。例えば普通に歩いているのとは、ダンサーの足が前に出る原理が全く違っているはずだ。(そしてこの点においても、動きの質に拘り抜いた上にそこにトリッキーな操作を仕掛けたレイナーの『トリオA』はやはり別格と思う。)