突然気まぐれを起こして出かけた初日のチェルフィッチュは、予想外なまでに「脚」の演劇だった。というよりもむしろこれまでのチェルフィッチュにおける特権的な部位は腕であり、運動の無限性よりも有限性の方にフォーカスがあてられていたことに気づいた。舞台を横から見る席だったこともあって「重力」が絶えず生々しく感じられ、文字通り一挙手一投足が「テンション」を孕んでいたし、それだけに四幕の岩本えりがあたかも停滞とは無縁の縦横無尽さで闊歩しまくるところなどはまさにヒロイックな「のろけ」であって、他愛もない「ラヴソング」的なラヴが全くそのままの姿で野蛮さへと転化するさまには思わず震えわなないた。正面から見たら今度は遠近感が強調されるのだろうなと思い、もう一回見たいのだが如何せんチケットが高い。
今日は早くも二回目になった手塚夏子の「カラダカフェ」。前回に比べるとカフェというよりプレゼンテーション風の内容とはいえ、やっぱり面白かった。特に凄かったのは、ダンサー(?)である手塚夏子と、ミュージシャンであるスズキクリが、ダンスとも音楽とも関係ないところで何かを共有してやってみようということで、紙と鉛筆を使ってそれぞれの手法で「書く」という実験。音を軸にして鉛筆を動かしつつも、やはり自分の描く線が視覚情報としてフィードバックされてくると話すスズキ氏、片や痙攣みたいな動きがほとんど純粋な痕跡を紙の上に残す手塚氏、そのドローイングと言ってしまうのもはばかられるような奇怪な作業が、何となく二人の呼吸が合った辺りで両者スッと手を引いて同時に終わり、客席は拍手をする。次は紙を破く、というのにトライして、「難しい」とか、「普通にビリビリ破いてるだけでいいような気がしてくる」とか、スズキ氏のコメントがとても興味深いのだが、そもそも「難しい」とか「いい」ってどういう意味なのかが考えてみるとよくわからなくて、でも何か終わると拍手してしまうその流れがひたすら異様で、場が軽やかに狂っているように思われた。痛快であった。狙って得られるものではない。別のところで手塚夏子の口から出た言葉だが、これら一連の作業に目的はなく、入口だけがあり、だから実験なのだろうと思う。例えば「ダンス」というようなところへはたどり着かないかも知れない、そこがいい。というかこういう次元をその人なりにくぐり抜けてない場合、「ダンス」とか名乗る資格は本当はないんじゃないかとすら思った、というのはいい過ぎかも知れないが、そのように言ってみたくなった。
「面白さ」=「関心」について、グラムシが書いていた(『獄中ノート』、Gerratana版、Quaderno 5, 54. 邦訳『グラムシ選集3』p.297以下)。「『面白さ』という要素は、各個人ごとに、各社会集団ごとに、そして群集一般において、それぞれ異なっている。だからそれは文化の一要素であって芸術のそれではない、などなど。しかし、だからといってそれは芸術とは異質な、切り離された事実なのだろうか?ともかくも芸術それ自体が面白いものなのだし、生のある要求を満足させるがゆえに、それはそれ自体として興味を惹くのである(interessante)」。「それ自体として興味を惹くものだという、芸術のこの最も内的な(intimo)性格」といいつつ、グラムシはその他にどんな「面白さ」があるかといって、例えば文法学者にとっては劇の中でどんな方言が使われているかということが「興味」の対象になるのだ、とかいった話に流れていく。そして最も安定しているのが「道徳的な morale」興味(関心)であろうともいう(ここは古典的な議論を踏まえている)。しかしその後に、「技術的な」要素ということにふれる。ここでいう技術とは、「小説や詩、劇の道徳的内容や道徳的葛藤を、最も直接的かつ最も劇的な仕方で理解させる方法」を意味する。「これによって劇における『見せ場』や、小説における主要な『筋』が作られる」。ちなみに「見せ場」というのは colpi di scena、「筋」というのは intrigoで、前者はフランス語なら coup de theatre という、突発的な出来事が見る者を「打つ」=ショックを与えるような瞬間のこと、後者は物事の関係が込み入ってもつれている状態。この種の議論のパターンとしてやはり「小説や詩、劇」が描く内容の話にすりかわってしまいがちなのだが、グラムシは「技術」の話をしながら、「見せ場」や「筋」の効果について触れている。内容とは別に、技術(=レトリック)そのものが力を持つ。そして「『商業的』な性格は、『面白さ』の要素が、芸術的な構想と深く溶け合った『純真』かつ『自然発生的』なものでなく、直接的な『成功』の確実な要素として、外から機械的に探り当てられ、産業によって計測されたものになっているという事実からもたらされる」のだとすれば、商業性もまた、語られる内容としてではなく語る技術としてまず発現し作用する。
ところでずっと前から気になっていたのは、美学史上の基本概念の一つである「模倣(ミメーシス)」というやつが、アリストテレスの『詩学』では「物真似」というパフォーマンス的な側面を持っていたのに、ルネサンス以降の読み替えの過程で「模写」「描写」「コピー」というような意味合いにズレていってないかということで、「物真似」(行為)と「模写」(作品、制作物)の間ってどうやったら論理的につながるのだろうかと折に触れて考えていた。それで、例えばある風景を描いた絵を見る時、そこに描かれている風景と実際の風景との類似だとか、あるいは迫真性だとかいったところに快の根拠があるのじゃなくて、それを描いている手の動きをトレースするところに快の根拠があるのだという風に考えれば、「物真似」と「模写」はつながるだろうと。たまたまエドマンド・バークをみていたら「模倣欲 desire of imitation」を論じた件があった(『崇高と美の観念の起源』、みずず書房、pp.54-55、ただし訳文は異なる)。

共感が我々に、何であれ人々が感じる物事に関心を向けさせるのと同じようにして、この感情は我々をして人々のすることをなぞる(copy)よう促す。
[…]
我々が万事を習得するのも、訓戒によるより、はるかにこの模倣によっている。しかも我々がこのようにして習得する事柄は、単に一層効果的にのみならず、一層楽しく、身に付けられる。これが、我々の風俗、我々の世論、我々の生活を形成している。それは社会の最も強靭な紐帯の一つである。それは誰もが互いに与え合う、強制なしの、また誰にとってもきわめて喜ばしいような、一種の相互的な準拠である。ここに絵画その他の様々な快適な芸術(agreeable arts)のもつ力の主要な基盤の一つは存している。
[…]
詩歌や絵画において再現されている対象が、我々が格別それを現実に見たいと思うような事物でないような時[静物画の場合など]、その場合は詩歌や絵画におけるその対象のもつ力は、模倣の力によるもので、その事物自体において働く原因のせいではない、といえよう。

「模倣の力 power of imitation」というのは「模倣者の技量 skill of the imitator」のことである。圧縮していえば、技術が模倣を触発するのだし、模倣とは技術のトレースないし反復のことなのである。
デリダの『エコノミメーシス』は、カントを読みながら Beaux-arts というタームにこだわって、作り出された作品ではなく技術が「美しい」と称されているのはどうしてかと突っ込みを入れている。とりあえずここまで。