この前のシンポジウムでポストモダニズムポストモダンダンスは区別されるべきという話にちょっとだけなったけれども、この辺のことが当時リアルタイムではどう扱われていたのかは、また別の問題になり得る。
市川雅の「ポスト・モダン・ダンスと舞踏」という1983年初出の文章が『舞踊のコスモロジー』('83年、勁草書房)に入っていて、そこで市川は「ポスト・モダニズム」を「ポスト・インダストリアル・ソサイティ(脱工業社会)とほとんど同じ意味」とした上で、「自然への回帰は確実にポスト・モダニズムの一面である」とか、心身二元論の克服などと語りつつケージもレイナーの『Mind Is a Muscle』も一緒に語っている。いくら市川雅でも83年でこれなのかと流石に驚くが、ともかく市川雅がこう書いているということと、ポストモダンダンス=ポストモダニズム、そしてポストモダニズム=脱工業化と考えられた時期があったということは、歴史的な事実である。ちなみに「日本のポスト・モダン・ダンス」としては「厚木凡人、田中泯を筆頭にして、加藤みや子、野坂公夫、江原朋子、田野日出子、岩名正記、五井輝、嵩康子、斉藤淳子、江口正彦、畑中稔、など」が挙げられている。日本のことを考える場合どうしても舞踏との関係が気になるが、市川は「モダニズムを超える試みにはもう一つの方向があった」として、「ポスト・モダニズムが脱近代なら、舞踏は前近代への還流」といい、「脱近代」と「前近代への還流」がどう違うのかは全く不明であるものの、「ポスト・モダン・ダンスが六〇年代なかばであるなら、それより数年早く舞踏は出発していた」という風に両者を一括りのフレームに収めて見ているのはともかく日本ならではの視点であると思う。ちなみに75年にジャドソン派が来日した『DANCE TODAY '75』には最初は日本から土方巽が出る予定だったと厚木凡人氏が話していた(実際には厚木凡人と花柳寿々紫になった)。
それで『美術手帖』の1970年6月号「特集 肉体と情念 変貌する舞踊家たち」を見てみると(『美術手帖』とか『現代詩手帖』では舞踏の特集はわりとよくやっているけれどもこれは舞踏という括りではない)、やはり市川雅の割と長い文章が最初にあり、その後に各4頁(写真1+文3)の構成で舞踏とかポストモダンダンスとかいう区別なしにズラッと紹介されているのが(カッコ内は執筆者)、厚木凡人(森永純)、笠井叡金井美恵子)、庄司裕(合田成男)、土方巽(ヨシダ・ヨシエ)、石井満隆(古沢俊美)、高橋彪(池宮信夫)、横井茂(山野博大)、邦千谷(刀根康尚)で、こういうラインナップの仕方もあるのかと興味深く見た。市川雅の文章は83年の「ポスト・モダン・ダンスと舞踏」の原型のような内容で、要するに「レイナーや厚木凡人の作品を微量の情念による肉体の空無化としてとらえ」、他方で「アルトー土方巽の系譜を情念の氾濫による肉体の疾走として」考えるというもの。「情緒的なもの」の量が極度に低下すると無内容な肉体が露呈し、あるいは「情緒的なもの」の量が過剰になると「肉体という自然の叛乱を引き起こす」ので、どっちにしても肉体が剥き出しになるという理屈のようだ*1
日本の戦後のダンス史にもそれなりにまともな批評の対象にされている部分というものがあるのだから、お稽古事の類の堆積の中に埋もれてしまっているそれらをきちんと取り分けておくのは必要な作業だと思う。

*1:ちなみにレイナーが書いた「『トリオA』の分析」の中での「反復」の扱いはややこしくて、動きの反復のもたらす効果について散々語った後にそれを『トリオA』は排除するのだと言っており、実際『トリオA』は反復をほとんど含まないのだが、この作品を見ないでテクストだけを読む多くの人々と同様、市川雅もその辺り全く頓着していない。66年に渡米して68年末に帰国しているから見ていないわけはないと思うのだが。