下で挙げられていた日本の振付家のうち、「舞踏」関係者と厚木以外についてはほとんど何も知らないし、実際こうした人々を「ポストモダンダンス」と括ることにどういう意味があるのかも今のところはよくわからないが、舞踏をそこに括り込むことでもっと包括的な現象として、つまりは世界各地で同時多発的に起こった「68年」的な動きの中にとらえつつ、地域毎のコンテクストの違いを見ていくということができれば新しい見通しが開けてくる気がする。
ところでこの時期ヨーロッパはダンスということでいえば比較的おとなしく、アメリカと日本が騒々しかったわけだが、マース・カニンガムや、カロリン・カールソンを介してフランスがアメリカのダンスを輸入したのとは別に、近年ヨーロッパでポストモダンダンスの再評価が起こっていることは恥ずかしながら最近まで知らなかった。前にも書いた Dominique Fretard, Danse Contemporaine: Danse et Non-Danse, Editions Cercle d'Art, 2004 をパラパラやっていると(まだ読んでない)いきなりイヴォンヌ・レイナーのドアップが出てきたりして、何なんだと思ってはいたが、その横に写真が出ているグザヴィエ・ル・ロワのことを調べると、この辺りのいわゆる「ノン・ダンス」とか呼ばれている人たちはポストモダンダンスからかなり影響を受けている、というか、ポストモダンダンスの実践を反スペクタクルの立場から相当リスペクトしているらしいということがわかった。今イタリアから日本に来ているAに教えてもらった Silvia Fanti / Xing (a cura di), Corpo Sottile: Uno Sguardo sulla Nuova Coreografia Europea, Ubulibri, 2003 という本で、ル・ロワがインタヴューに応えたりしているのだが、96年にアルブレヒト・クヌスト・カルテット(Quatuor Albrecht Knust)というフランスのグループが、レイナーが主導していた初期グランド・ユニオンの Continuous Project - Altered Daily と、パクストンの Satisfyin' Lover を復元上演していて、そこに参加したことから大きな影響を受けたと言っている。ネットで調べてみたらアラン・ビュファールとかボリス・シャルマッツも周辺にいた。ビュファールはNYで作品を見たが、そういえば彼もハルプリンやレイナーに傾倒しているのだった。
ちなみにアルブレヒト・クヌストというのが誰だかわからないと思って放置していたら、たまたまラバンのことを調べていてこの名前に行き当たった。ラバンの直弟子で、ラバノーテーションの権威だった(この前のシンポジウムの時には無知を晒してしまった)。それでこのカルテットというのは、フランス人の四人組で、ニジンスキーの復元上演とか、そういう活動を色々している集団らしい。この復元版 Continuous Project - Altered Daily は2001年にカナダのヌーヴェル・ダンス・フェスでも上演されていて、その時のレヴューLena Marie Stuart は結構辛口というか、「何で(レイナーの仕事の中で)これをやるのか意味不明」、そして単に「古臭く」「くだらなくて笑える」パフォーマンスということで終わってしまったと書いている*1。ラバノーテーションとグランド・ユニオンのこの不幸な出会い、そしてその責任者たるアルブレヒト・クヌスト・カルテットの呪わしい生真面目さ(「古典」を祭り上げたがる奴隷っぽさ?)が、その後のル・ロワの仕事によってどこまで贖われているのか。
聞くところによるとパリのシネマテークのダンス部門が、アメリカの映像もかなり所蔵しているかも知れないとのことで、次はもしかしてパリかなと思っている。

*1:まあ今、普通に公演として見たらそんなところかも知れないが、逆にいえば、例えばこの前のトリエンナーレに出ていたようなパフォーマンス風のものなどはほとんどグランド・ユニオンによって30年くらい前に既に超えられてるよなと思いながら見ていた。しかし1970年代と今とでは時代がこれだけ違うのに作り手が同じような方向に向かっているということは、この30年という時間経過の中に距離をこじ開ける(=問題を形成する)という作業が絶対に何かの鍵を握っていると思う。