勅使川原三郎の新作は、冒頭の勅使川原のガラス上の歩行(?)が凄くていきなり身を乗り出して見た。いくら目を凝らしてみてもよくわからない異様な動きは期待感を煽ったのだが、全体に見ると、「完成度」の極のようなところへ行った『KAZAHANA』の後ということでか一見「崩し」まくっているようでいてでもやっぱり様式美で中途半端に誤魔化してしまっているようでもあって、98%ぐらいの時間は退屈して終わってしまった。しかし冒頭部分の他、各々に振りを与えられた5人が入れ替わりながらソロを踊る場面の佐東利穂子の狂ったような足捌きは忘れ難く目に焼きついている。踵が浮いたままのタップ、というよりサッカー選手のトリッキーなボール操作を思わせるステップの入り乱れ、ほとんど体がバランスを失って転びそうにさえなりながら倒れかかる自重が逐一掬い取られ逃がされ拾い上げられて転倒から転倒へと止まらないポップコーンじみた弾けぶり。『KAZAHANA』でも『Bones in Pages』の改訂版でも凄かったがそろそろこの人のソロの舞台を見たい気がする。
タップといえば日本でも3月に公開予定のCGペンギン・ミュージカル Happy Feet はセヴィアン・グローヴァーがモーション・キャプチャーで「振付」を担当しているらしい。『マッドマックス』の監督であるジョージ・ミラーがインタヴューで「モーション・キャプチャーはどんな動きでも再現できる」と言っていたが、ぼくには今のモーション・キャプチャーの、あんな点々の集積で、人の体の動き、あまつさえダンスが捕捉できるなどとはとても思えない。スタジオで「ダンスに見とれてしまう」と言っていたミラーはこのCGの出来を見て、自分のやっていることの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまったりはしないのだろうか。例えば米屋が米を担いでミリグラム単位の違いがわかるとか、あるいは普通の人でも本のページを一枚一枚、指の腹の指紋の溝でもって繰って行くことができたりする、そういう次元に属するものである体の動きを「見る」ということの際限なさ、逆にいえばいくらだって体は「見えない」のだという事実がかえって見る者の目をますます活性化して「見よう」とさせるのだし、そうやって視覚の制度性や限界もぶち破られていくと思う。カメラと同じように網膜には全部映っている、ただその一部だけしか意識できないから「視覚」にはいくらでも変形の余地がある。過渡期の技術が「リアリティ」を僭称して機械的に狭められた偽のリアリティをばら撒くと同時に、過去のセル画のアニメ作家には与えられていた「動きを創造する」という特権的な自由も忘れられてしまう、そういう状況というのはCGが「リアリティ」の追求という軛から解放されるまで続くのだろう。こんなことは過去に何度も繰り返されてきた。