■
一週間あっという間に過ぎて「アジアダンス会議」は終了。毎日ここにレポートを書くつもりだったけどとてもそんな状態じゃなく、一週間の合計睡眠時間が一体どれくらいあったのかと思うと全くよく最後までやれたと思う。こんな睡眠時間で活動できたら人生はもっともっと長くなるかもと言ったら早死にするから短くなるとOさんに言われた。今回はファシリテーター兼参加者という複雑かつ曖昧な立場で、まず自分のセッションの準備が遅れて出だしの勢いが悪くなってしまい大いに反省。しかしその後も他の発表者と通訳の方々との間に入って調整を図る仕事が続き、自分のセッションが終わってからは二夜連続で翻訳マシンと化し、さらに誰かの部屋に集まって遅くまでディープに話し込んだりもした。
これだけ多様な価値観の人々が一週間ずっと濃密なコミュニケーションを図るという機会はそう滅多にあるものじゃなく、それだけにプログラムの内容はちょっと欲張りすぎだったかも知れない。毎年開催されていればもう少し余裕も取れる。とはいえ4時間を越えるファイナルセッションでは「流れる 切る つながる 重なる」という会議のコンセプトが具体的な成果として浮彫りになり、所期の目的はかなりの水準で達成できたんじゃないかと思う。
閉会後は両国のちゃんこ鍋屋で打ち上げ。この後大阪のダンスボックスで開かれる「アジア・コンテンポラリー・ダンス・フェスティヴァル」に回るジェコとピチェ以外は二次会にも流れ深夜の和民で再会を約束して別れた。ジョヴィアンは一人で箱根の温泉などに行ってからダラスに帰るとのこと。ヘリーはインドネシアの各地からダンサーを集めて今回のような会議をやってみたいと言ってくれた*1。フクワンは、「第4回アジアダンス会議」はヨーロッパのどこかで、例えばブリュッセルなんかでやってみたらどうかとも言っていた。マレーシアの各地に伝わる珍しい古典舞踊やフォークダンスを実演して見せてくれたズルからはシラットの教科書をもらった。
今回の会議から何を得たかはもちろん人それぞれだと思うけど、少なくともぼくにとってはとにかく自分の価値観がガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまい、この瓦礫の中からどうやって立ち上がればいいのかしばらくはボーッと考えるしかない。初めてインドネシアに行った時もそうだし、NYに行った時もそうだったけど、何か新しい知識や視点を得たというより、逆に、何もわからなくなった。この世界の中での自分の立ち位置を十分意識できていないがために、深い傷も負った。そしてそれは成功だったと思う。今回の会議で何度か出てきたのは、要するに「力」というものは、知れば怖くなくなる、「知る」ことが大事だ、という考え方だった。
*1:これは日本で、例えば東京、大阪、京都、福岡、北海道、沖縄、松山、などという風にしてやっても面白いかも知れない。