途中で2時間くらい起きたものの合計で26時間くらい寝ていた。すぐに気持ちを切り替えて次の仕事に取りかかることにし、とりあえず4月から桜美林大学でやる授業の内容を正式に決めた。いくつかあった案のうち、最もハードだが最もやりたいこと、今の日本で最も必要と思われること、を選択してしまう。午後からは恵比寿へ出て人に会った。「アジアダンス会議」のことは、載せてくれる媒体ならどんどん書くことにしたいのだけど、2月末締切の論文も仕上げてしまいたくて、しかしその前に長い原稿が全然片付いていないという現実。この一週間、会議以外のことを「何も」できなかったのは正直想定外だった。
ところで会議の直前にやった、神村恵カンパニーのアフタートークのことを稲倉達さんが書いてくれている。あの時は、振付家インタヴューではなく、あえて関係ない雑談をしようというコンセプトだったのだけど、はっきり言って自分の方が喋り過ぎてしまった。稲倉さんは「『太った舞踊評論家』宣言?」と書かれていて、これは何かというと、要するにここ数年ぼくは太ってしまい、内臓脂肪のせいか眠ろうとする時に自分の呼吸が気になるという話をしたのだった。眠りに落ちていく時の、自分の存在が世界からフェードアウトして消えていくあの感じが、自分の呼吸に邪魔されて、その時に体が何か「過剰なもの」として浮き出してくる。それで、最近はそういう体でもってダンスを見ているので、ダンサーの呼吸というものにすごく興味がある(まあダンスを見る時に呼吸を無視して見るなんてことはあり得ないのだけど)。それで稲倉さんは、そういうぼくのダンスへの対し方を「ダンスを理解するためには自らも踊ってみないと判らない」というまことしやかな言説へのオルタナティヴではないかといっている。舞踊評論家はみんな痩せていて、一般的にダンスする身体との同質性が保たれている。もちろん痩せていることと踊れることの間には必ずしも因果関係はないし、太っているからといって踊れないと決まったわけでもないが、実際ぼくは踊らないし、スポーツもエクササイズもしないから太っているというのは確かだ。ここから、稲倉さんのいうように「痩せた身体による鑑賞体験のみが特権化されてはならない」と、つまり鑑賞者の身体の多様さということを無視してダンスを語ることはできないという風に考えるとして、ぼくとしてはそこからやはり、「踊らない身体による鑑賞体験」、あるいは「日常を生きるフツーの身体による鑑賞体験」ということを主張したい。誰もが自分の体のことをよく意識しさえすれば、ダンスはそれぞれに色んな仕方で見えてくるのだし、そういう個々の多様な身体を目がけてダンサーは球を投げることができると思う。そういうわけなのでぼくはこれからも決してWSを受けたりしないでフツーに、ただし体にはフェチに、生きていようと思う。
ちなみにこの一週間で目に見えて痩せた。