3月の後半、ネセサリー・ステージの『モバイル』の後にシアタートラムで開かれたシンポジウム「コラボレーションとネットワークの未来」に、三日間通った。知っている人が何人か出ていて、NYで一緒だったマレーシアの友達とは久しぶりに再会できた。あの時と今とでは、自分のアジアに対する理解がまるで違っている。シンポジウムは毎日三時間くらいあり、日英の通訳が挟まるのでとても神経が疲れたのだが、それなりに得るものがあった。つまりアジアの人々にとっては「国際交流」的な作業には必然性がある(ネセサリーな)のだが、日本の人々にとっては必然性がほとんどないのだということがわかった。長い間フィリピンの演劇人たちと交流を続けている日本の演出家が、「フィリピンの人たちとの交流から何を得ましたか」と聞かれて、考えあぐねた挙句、「外国に友達ができた」と応えた時は流石に笑ってしまったが、何よりもこのシンポジウムの企画そのものに方向性が伴っていなくて、何のために何を話し合う場なのか誰一人つかめずにいるようだった。つまりシンポジウムを企画している日本サイドには当事者意識がなく、ただ遠くからアジアを眺め、語り、安全に関わろうとだけしている。自分の足元を見ればいくらでもつながりは見つかるはずなのに、見ない。事なかれ主義が、事実上、暴力になっていても、お金を出すことでごまかしてしまう。信じられないくらい退屈なのに、その退屈さからさえ逃げおおせてしまうほど、徹底して退屈な国なのだ。