島尾敏雄『新編・琉球弧の視点から』('92、朝日文庫)を読む。小栗康平『死の棘』かソクーロフ『ドルチェ 優しく』しか自分には接点のない島尾敏雄は50年代から奄美に住んで、70年代ぐらいに「ヤポネシア」論を展開していた。「ヤポネシア」というのは日本を「ミクロネシア」や「メラネシア」のような列島(大小の島の連なり)として捉え直してみようとする島尾独自のイメージ。

鹿児島と台湾のあいだに弓なりにつらなる琉球弧の島々は、日本の地図の外にはみでた余分なところではなく、またたとえば地図帳に別かこいにされてつけ加えられる場所でもなく、本州や九州が書かれている同じ比率で、全体として書きこまれなければならない(214ページ)

琉球王国の中継貿易は朝鮮半島と並んで日本の貿易にとっての最重要要素であったのだし、ペリー提督も浦賀より先に沖縄に上陸した(アメリカのターゲットは最初から日本ではなく沖縄だった)。つまり島尾がいう通り、色々な意味でこの地域は「日本の歴史を支えてきたところ」なのだが、にもかかわらず「本州や九州の人々がこの地帯を無意識ながら、なぜ地図の上から脱落させがちなのか」といえば、それはもはや明治維新以来の長州薩摩中心の帝国主義イデオロギーだというのが単純明快な答えだろう。ただ「ヤポネシア」の概念とともに「琉球弧」の存在を復権させることによって、島尾は日本の領土を最大限に拡張して表象しようとしたのでもなければ、「周縁」としての「琉球弧」を通路として日本とアジア諸国との間の境界をなし崩しに溶かしてしまおうと考えたわけでもなかった。「南に行くにつれ琉球方言はしだいに異質な要素をまじえ、やがてつい目と鼻の台湾の東海岸に住む人々のことばにつながってしまうとでも思って」いたとしたらそれは大間違い、「日本列島ははっきり与那国で終止符が打たれている」(214頁)。しかし琉球弧をはっきりと日本の一部として捉え返すことによって「日本の多様性」(15頁)が生まれる。沖縄芝居を見て、沖縄方言を聞きながら、共通語との差異の大きさと同時に、共通語との近さも感知する島尾は、そうした聴覚体験に「日本語の可能性」の幅をみる(225頁)。

カタカシラ(沖縄のまげ)にゆった武士が親のかたきを見つけ、「ネィティン、ワシララン、ウヤ、ヌ、(ティチ)カタチ」と討ってかかるときは、同じせりふが、「ネテモ、ワスラレヌ、オヤ、ノ、(テキ)カタキ」と発音されて耳にはいったときと重なり反発しあって、ふしぎな効果をあらわしはじめる(226頁)

こういうことは普通に経験する。方言や、外国人の話す日本語を聞こうとする時、耳の中で補正をかけている。しかし島尾が凄いのは、それを「補正」などとはいわずに、「方言」とよばれている言葉と「共通語」とよばれている言葉がそれぞれ互いの「パロディー」になると考えるところだ。

両者をくらべ聞くことによって、その人にとっての日本語はその表現領域が従来の感受より二倍の上も広がっていることに気づくであろう。表現領域が広がるばかりでなく、明らかにずれの存在の場所から、おたがいの言葉がそれぞれの言葉のパロディーになっていると見ることもできそうなことだ。これは全く素晴らしいと言わなければなるまい。そしてこのことは、言葉だけに限らず、両者の文化の万象の上に及ぼしてみることも、できるのではなかろうか。(286頁)

差異を超えたり解消したりせずにむしろ増殖させ「多様」として生きる。互いに照応し合いながら無限にズレを演じ合う(諸)言語と同じくらい、この島尾の精神は素晴らしい。あらゆるものをパロディという鏡でつないで乱反射させてみたくなる。