土曜、なぜかまた野毛山。急な坂スタジオで「動物園とアート」をテーマにしたトークをやるというので、来月の「カラダバー」の参考になるかなと思って聴講する。始まる前に別件で打ち合わせをしていて、スタジオへ向かう途中にあった香ばしい感じの古本屋に寄ろうと思ったらダンサー/振付家のKさんに会い、一緒に会場まで行く。トークで紹介されたのはよこはま動物園ズーラシアのエデュケーター、長倉かすみ氏が企画してきたいくつかのイヴェントで、音楽家野村誠が動物と一緒に音楽を作るというのが面白かった。動物と「対等な立場」に立つという基本スタンス。サルの檻の前へ行って、サルが遊んでいるのと同じ貝殻を床でこすって音を出したりしていると、サルがそれのマネを始める。野村は「心が通った」と思ったという。オランウータンにピアニカを弾いてきかせてみると、何となくこっちを見ている。オオアリクイは、ピアニカの匂いをかぐ。すると音が出る。匂いをかいでいるのか音を出しているのかはわからないがともかくそういう事態が持続する。ここで野毛山動物園の元園長、大坂豊氏がスピルバーグの『未知との遭遇』を引き合いに出してコメント。絵を描くことを覚え始めたオランウータンは、クレヨンを口に入れて紙を押し付けたり、何色か同時に入れて色を混ぜたりといったことをやる。クレヨンや紙といった道具はどこまでもオランウータンにとって異質な何かであり、それを触りながら脈絡なく様々な可能性をまさぐり続ける。絵具のパレットを檻に近付けると、中から絵筆が伸びてきて、筆に色を付け、檻のあちこちに塗りつける。何をどうしようということもなくただ行為が多様に続き、檻のみならず手にも絵具を塗りつけたりするが、画面の上部から絵筆が何度もフレームインしてくる途中、いきなり筆の代わりに舌が伸びてきたりして驚かされる。絵筆と絵具を与えられたオランウータンにおいて、筆先と舌先は普通に置換可能である。なぜならこの行為は何の意味とも関係のない純粋な遊戯だからだ。もう一人のスピーカー、永岡大輔氏は、同じ絵を描く者としてオランウータンのやっていることに興味がある、と言っていた。動物の生活には必要のない異質な道具が与えられた時に、人間が作った道具の機能性と動物にとってのそれの無用性がぶつかり合って、どちらにも属さない奇妙な出来事(意味)が生まれる。両者は同じものを見ていないかも知れないけれども、「接点」はもつことができる。もっともこうして「接点をもつ」ということ(=コミュニケーション)自体に過剰に意味を求めてしまうと、何か嘘っぽい福祉の眼差しに似てきてしまうのだが、異質なものとの間に共通点を見つけ出すということは自己のアイデンティティを揺るがす危機的瞬間であるはずなのだから、オオアリクイが音楽に反応しているかどうかも大事だがオオアリクイに音楽を聞かせている野村誠の身体や意識がどうなっているのかがもっと知りたかった。