日大でやっているエドマンド・バークの講読はもともと少なかった出席者が二回目でさらに激減してゲンナリしていたが、桜美林の舞踊論の講義は二回目の出席率(リピーター率)がとても良かった。しかし、初回は意図的にエンターテイニングな内容にしたからであろう、無音の白黒映像ばかり見せる二回目以降はやはり減るであろう、と考えて予め心的ダメージを軽減しておく。
ダンスは見るだけで体に入ってくる(伝染する)ものであり、自分の体に入ってからでなければダンスはダンスとして経験されないのだ(あたかも食べ物のように)、という前提に立ちつつ、踊り手と観客の関係を、先生が生徒に踊りを教える関係と重ね合わせるというところから話を始めてみた。先生の動きを生徒がコピーするように、踊りを見る者は踊り手の踊りを想像的にコピーする。したがって、ダンスを踊り、見ることは、必ず「教育」(ディシプリン)に関わっているし、いいかえれば何らかの権力関係を不可避的に含む。id:mmmmmmmm:20061209にも書いたが、バークの中にこれを「模倣欲 desire of imitation」として論じている箇所がある。

共感が我々に、何であれ人々が感じる物事に関心を向けさせるのと同じようにして、この感情は我々をして人々のすることをなぞる(copy)よう促す。
[…]
我々が万事を習得するのも、訓戒によるより、はるかにこの模倣によっている。しかも我々がこのようにして習得する事柄は、単に一層効果的にのみならず、一層楽しく、身に付けられる。これが、我々の風俗、我々の世論、我々の生活を形成している。それは社会の最も強靭な紐帯の一つである。それは誰もが互いに与え合う、強制なしの、また誰にとってもきわめて喜ばしいような、一種の相互的な準拠である。

ダンスは口では説明できない。言葉ではなく身体に直接迫ってくるところにその力がある(模倣欲を介した情報伝達は、訓戒や強制によるそれの効果をはるかに凌ぐ)。言葉を超えているということは、「人間性」をある特殊な仕方で超えているということでもある(昨日書いた「動物園とアート」のトークでも、動物とは「言葉が通じない」相手である、という話が時々出ていた)。
しかしながら、身体は、一面ではモノであるが、その半面、想像力の産物でもある。イメージの働きなしには身体は構造として機能しないのだから、したがってダンスや模倣が行われる時には、まさに動きのコピーが行われるその瞬間に、身体のイメージや、表象や、価値観もまたコピーされる。レイナーの『トリオA』が問題化したのはこのような情報の流通過程に関わる権力の構造であった、という風にこれから話を進めていく。
初回で使った、NYCBの先生がダンサーにバランシンを振り写す様子を撮影した映像の中で、先生が自分の腕を使って、脚の動きを教えている場面が出てくる。両腕を真下に伸ばして、パッセをやってみせ、それを生徒が脚で真似るのである。ぼくはこういうことをしているというのは今まで知らなくて、ダンサーのMに聞いたら、先生の年齢によっては普通に行われているということだった。そして、先生もまた訓練を積むと、やがて腕を本当に脚のように(関節の構造や、部位の形状など)動かせるようになるのだという。脚は腕になり、腕は脚になる。