土曜日、「動物園とアート」のトークの前に、Gさんと「アジアダンス会議」の今後のことも含めてお互いのアイディアを交換したりした。アジア会議以降の我々の関心としては、アーティストが表現者としてもっと社会性を意識するべきではないかということが大きな問題としてある。ダンスを作る作業はとても感覚的に行われていて、それ自体は素晴らしいことだけれども、そこにおける全ての問題を感覚的に解決すべき、解決できる、という思い込みは、むしろ表現を弱くしているとぼくは思う。「弱い」というのは、単に広く一般的な説得力をもてないということでもあるが、もっと重要なのは、「感覚」なるものや「欲求」なるものが何によっていかにして構成され、条件付けられているかに対してほとんど無自覚に思えるということだ。
例えば矢内原美邦のダンスの中には、あからさまに記号化された「子供」や「女(の子)」のようなもののフォルムが現れる。それはほとんどマンガやアニメに出てくるデフォルメされた「子供」や「女(の子)」のイメージのコピーであるように思われ、そういう二次元的なものが、非常に生々しい身体感覚への内向に支えられた繊細な身体コントロールや、物理的なモノとして乱暴に投げ出される身体運動と、モザイク状に混じり合っている。だから矢内原の作るダンスは、いかに身体がメディアや記号によって深く侵食されているかということを事実として表していると思うのだが、にもかかわらず、それは限りなく受動的な「症候」でしかなく、身体がおかれた状況を批判的に捉え直すということを当事者が行っているようには思えない(yummydanceにも似たことがいえるだろう)。現実を反映はしても批判はできない(しない)、いいかえれば現実からアイロニカルな距離をとれない、ベタである、というところに、ダンスの一つの根本的な弱みがあるのか。ベタな現実そのもの以外の何かではあり得ない(という理念をもつ)がゆえに、ダンスは体制に従属する宿命なのか。
いやそんなわけはなくて、イヴォンヌ・レイナーや、黒沢美香のように、「アイロニカルなダンス」に到達している人は、少ないけれどもいる。むしろ「アイロニカルなダンス」の否定的な身振りが、単なる「ダメなダンス」の肯定と一緒くたになってしまう状況の方が問題だと思う。例えば村上隆奈良美智が一緒くたにされてしまうように、ものの「質」ではなく(判断力抜きで)単なる「モード」の枠組で処理してしまう市場原理の力が強過ぎる。確かに、ピナ・バウシュが来たってフォーサイスが来たって昔みたいには凄くないから基準値は下がる。マックよりは吉野家だろう、みたいなレヴェルで回っているかも知れない。しかし作り手が主体性を放棄してしまったら、もっと大きい主体に従属してしまうことになる、とどうして考えないのだろう。それともどこかで従属を欲しているのだろうか?