小雨が降ったり止んだりしている中を、手塚さんと、手塚さんの息子のKと、上野動物園。昼前から閉園まで、じっくり見て、撮影もしながら、目的なく話す。
ゾウの鼻が動くのを間近で観察したら、傍に簡単な解剖図みたいなものがあり、そこに「鼻筋(びきん)」が描かれていた。長い鼻の、外側(体でいうと前方の側)に走っている巨大な筋肉。しかし他は人間とあまり変わりなく、ぼくにとって意外だったのは、四足獣も前脚と後脚は構造が違っているということで、進化の過程としては四足歩行→二足歩行(手が自由になる)という風に理解していたから、骨盤と肩甲骨が概ね相似関係にある(ある程度似ており、かつ異なる)ということなど興味深く思った。体の前半と後半を相似と考えるとやはり動物の体は一本の管であり、一方から何かを取り入れて他方から排出するようになっている(ただし消化器系は全身に渡っているのに対し呼吸器系は前半にしかない)。
鳥にしては胴が垂直であるペンギンはとても歩きにくい体をしているけれどもその困難の克服の仕方には少なくとも二種類ある。比較的体の大きい種類はいちいち片足ずつ持ち上げて難儀そうに移動するが、小さい種類は体を前方に傾けオフバランスにすることによって走るのである。
二人で話していて、他人や動物を外側から見るということと、その「体」を自分の体で感じるようにして見る(「体で見る」)ということの間にはとても大きな溝がある、という重要な論点が出てきた。バークのいう「模倣欲」、あるいはベンヤミンが「模倣の概念について」で語っているような「模倣(物真似)」について、もっと語っている人がいないかと探しているのだけれどもなかなか見つからない。「言語起源論」の文脈では、例えばコンディヤックなども、語り得ないものに直面して思わず「身振り」が突き上げてくる、というところまではいくのだが、人の体はすぐに「記号」に、いいかえれば外側から読まれる/読ませるための客体に還元されてしまう。デリダの「エコノミメーシス」は、結局「自然」と等価と見なされるところの「天才」がその技術において「自然」を模倣するのだというような、つまり西洋美学で理念化された「ミメーシス」は要するに自然の自己反映(閉鎖的で、排外的な)ということに収斂するだろうという議論だった。そうではなく……どうしても、体の中で起こること、外で終始せずに、ある内部から別の内部へと引き起こされることについて考える必要があると思う。
手塚さんは流石に解剖系に詳しくて、キリンの胴の形のおかしさや、膝の出っ張り(キリンの膝は脚の付け根の辺りにあり、人間の膝の位置にある関節は実は足首らしい)などピンポイントで突いてくる。