2月の黒沢美香『薔薇の人 ―登校―』は一つの謎とその部分的な解決をぼくに示唆してくれた。とはいえ、この謎は、ぼくの知る限りでは誰も解決してみせたことがないばかりか、それが存在するということすら、自分以外の誰かの口から聞いたことはなかった。つまり、明らかに偶然である出来事が、あるいはその偶然性自体が、不意に丸ごと意味へと転化するという事態のことだ。今回は、砕け散ったソフトサラダせんべいの破片を、歩き回る黒沢が思いがけないタイミングで踏みつけ、ブチっという音が鳴ったり、服についていたのがおもむろにポロッと落下したりする度に、爆笑を引き起こしたのだったが、こんなに不可解なことはないと思う。なぜならそこには計算されたタイミングもないし、ただ当たり前のことが当たり前に起こっているだけだから。その破片がその位置にあり、黒沢がそれを踏むのは、限りなく単なる偶然でしかない。
このことはとても新鮮な経験としていまだに尾を引いているのだが、自分の中では、わりと最近、電車の中で奇妙な体験をした記憶と結びついてセットになっている。午後、乗客もまばらな電車に乗っていて、確か本を読んでいた。駅に止まって、ドアが開くが、乗って来る人はいない。そのドアが開いている間、誰もがそのドアが閉まって電車が走り出すのを待っているようなジリジリした状態が続く。すると突然、ぼくから一人置いて隣ぐらいの距離に座っていたサラリーマン風の人が腰を浮かして立ち上がりかけ、片脚を前に踏み出すと同時にドアの外に目をやり、降りる必要がないことを確認すると、再び元通りに座った。一瞬間を置いてドアがプシューといいながら閉まる。するとどういうわけかサラリーマンの斜向かいに座っていた女の人が持っていた文庫本をバサッと落とし、すぐに拾った。ここでぼくは吹き出しそうになってしまったのだった。一連の出来事があまりにも見事なタイミングで連鎖していて、頭の中で何度も反芻してしまったほどなのだが、その連鎖(シークエンス)はほぼ、ぼくが勝手にそこに見出したものだ。行為の当事者たちの中に何かリズムのようなものが密かに浸透していなかったとはいい切れないが、まずは無秩序に散らばった星をつないで星座を作るようなことをぼくが無意識にやったのだと思うし*1、いつの間にか出来事の現場ないし当事者性からは切り離された特殊な位置へと自分を括り出してしまってもいて、しかもその操作のことを自分でぼんやりと意識していた。
これと、せんべいの破片を踏みつける黒沢美香を見ることとは、出来事としては同じだと思う。ただ、黒沢美香は観客の意識を、自分で無秩序な星々の中から星座を取り出すようなモード、いいかえれば、無意味の中に身を乗り出して勝手に何かを見てしまうようなモードへと移行させてしまう技術をもっている。電車の中の体験が生じたのはそれこそ偶然だが、黒沢は意図して生じさせることができるのだろう。劇場などという場は、普通、踊る側も見る側も特殊な目的意識に引っ張られているから、踊る側は意味を作り出そうとするし、見る側は意味を期待する。しかし黒沢は、そういう癒着を一旦切って、出来事を丸裸の偶然の状態にしてしまい、そこからさらに、思い切り後ろへ引くのだと思う。何かやって見せておいて、あるいはそのような振りをしておいて、そこから不意にどんどん引くから、観客はつい釣られて前のめりになってしまう。踊りの中に細かな停止(沈思黙考)が散りばめられたり、舞台の上に立っていながらいきなり気付くとポカンとした空虚やフラットネスが生まれていたりする、こういう「引き」を効果的にやれるところが凄いのだと思う。
ちなみに、2003年に見たDA・Mの『トマトをたべるのをやめたとき version 3』という舞台でもこれに近いものを味わったことがあった。終盤近く、大量のフランスパンが舞台奥(麻布die pratzeの上手奥、さらに階段の上など)から転がり出してきて、パフォーマーたちがそれを暴力的につかんで振り回し、引き裂き、食いちぎり、辺りに叩きつけて破片と粉塵を散乱させた後の、一面に飛散したパンの大小、量、配置が、突然、完全に計算された構図のように揺るぎない「画」として見えてきたのだった。これは思うに、緊張度の高い激しいアクションを見ていた自分が、そのテンションから解放され虚空に投げ出された時に、集中力の余韻のようなものが作用して、「星座」を見させたのだろうと思う。この時がおそらくぼくがこの問題について意識した最初である(ただし笑いは起きなかった)。
「偶然」ということを「無関係」という風に捉え直すと、去年の11月に見た神村恵カンパニーもここに連なってくる気がする。ダンサー同士は明らかに、終始周到なまでに互いに無関係を装っていたし(相手の体に乗るなどしてコミュニケートしている間さえもその空気は明瞭にあった)、何といっても森下スタジオのAスタの搬入口が開け放たれて、時折りそこを人が通ったり車が通ったりしていたのが、外界と内部で行われていることとの無関係ぶりを強烈に演出していて、かなりの時間、ぼくは笑いをこらえるのに苦労していた。
スーザン・ソンタグの「ハプニング――ラディカルな併置の芸術」(1962年)は、「無関係」ということと「笑い」(さらには「恐怖」)を結びつけている。「シュルレアリスムとは――ハプニングを含むあらゆる実例において――極端な無関係を強調する」(ソンタグ『反解釈』、ちくま学芸文庫、428頁[amazon])。「すぐれた喜劇の主人公には必ずどこかロボットめいたところがある。〔中略。例=バスター・キートン。〕喜劇の秘密は無表情にある。――言いかえれば、まともな反応のパロディとしての、誇張された反応ないし的外れの反応にある」(同)。「まともな反応のパロディ」というのは、要するに、反応すべきところで無表情であったり、(それに気付かないなどして)無関係なままでいたりするさまの滑稽さをいっているのだろう。しかしソンタグのいう「無関係」は、やはり「強調」された人為的なもののことで、無関係が無関係として、いいかえれば偶然が偶然として、意味を担って立ち上がって来る瞬間(あるいは星々が星座になる瞬間)の驚きのメカニズムにまでは届いていないように思う。無関係や偶然は、設えて提供されるのではなくて、耐え難い意味の空虚としていきなりやって来るのでなければならない。その耐え難さのあまり、思わず星と星をつないで星座を作ってしまう時、人は本来的に無意味な世界の真の不毛さに気付かされ、それと同時に所詮意味なしでは生きられない己の卑小さを突きつけられて、深く絶望するのだと思う。絶望のあまり、脳内物質が出て、笑う。

*1:サラリーマンは素早く上昇してすぐに下降、ドアは無感動に水平かつ一方向に閉じ、文庫本は唐突に落下した後あわてて拾い上げられた。あまりにも出来過ぎたアンサンブル。