このところ、単に自分が好きなダンスと、批評的な(?、例えば上のような意味で)重要性を語れるダンスとは必ずしも重ならないし、一致する必然性もないのだという風に考えたら、いくらか気が楽になった。
今年の第一四半期(1〜3月)に見た中でいえば、2月のアンサンブル・ゾネの伊藤愛が圧倒的に素晴らしかった。作品そのものは、明確さよりも曖昧さを意図していることは見て取れるものの、説得力の点ではやや弱く思われ、だからダンサーたちのパフォーマンスの全般的な「薄さ」もあまり積極的には受け止められなかった(振付の岡登志子自身のダンスすら今回はそうなのだった)。しかしながら冒頭近くの伊藤愛のソロは、くっきりと分割された諸部位が、全くまちまちの速度、アタック、リズムによる短く多様な線分を次から次へ精確に描き出しつつ、個々の線分と線分の間の質感の大きな飛躍や落差を保持したまま、全身を一つの不定形だが明瞭な「うねり」の中に放たれた魚のようにして、爽快に踊り切っていた。今回の作品を見ていて、岡の振付の重要な要素として「サスペンス」ということがあるなと思ったのだが、サスペンス、つまり速度やエネルギーの増加および減少の曲線*1が、この場面での伊藤への振付には異様に細かく詰め込まれていて、その事細かなニュアンスをどこまでも深く汲んで踊り抜く伊藤には呆然とするしかなかった。いや踊っている最中にすら、伊藤の動きが岡の振付にますます深く食い込んでいき、奥からもっと濃い味のエキスを搾り出して来るような貪欲さに満ちた踊りだった。今、岡登志子のやりたいことを最も高い水準で実現できるのは伊藤愛なのかも知れない。しかし少なくともこの伊藤愛のダンスを語るのに何かしら新しい批評的な(=今までダンスについて語られたことがなさそうな)切り口を見つけられない間は、ひたすら理屈抜きに賛美し続ける以外ない。岡登志子/伊藤愛を見ろ!といい続けるしかない。

*1:例えば摺り足は床との摩擦による速度の減衰を生じるための仕掛けであり、特徴的な深い呼吸は全身に「張り」と「撓み」を作るための仕掛けであって、また動きの全般を占める重力と筋肉のバネを用いた「張り」と「撓み」は、時折り現れる90度の鋭く硬い方向転換との間にコントラストを生んで一層際立つことになる。