火曜、携帯を車道に落としてしまったらしく、駅で公衆電話からかけてみたらつながったが誰も出なかった。気が気でなかったが北千住へ行ってNoismを見る。再び自分の携帯にかけてみたら今度はつながらなかった。嫌な予感がする。劇場で、ACCでNYから来ているヴィデオ・アーティストのSとLに会って、終演後に近くの居酒屋で取り留めもなく話をする。去年の8月、二週間ほど過ごしたブルックリンのパークスロープに二人とも住んでいて、ちょっと懐かしかった。NYでは地下鉄の運行が不規則で、いつ来るのかわからないまま待っている時、人々はホームから身を乗り出して列車が来る方向を眺めていたりする(ぼくもうつってしまって、帰国後も気付くとそうしていた)。しかし二人の言うにはNY市民は駅の構内やホームを漂っている臭いや気流の変化によって列車の動向を察知するという習慣さえ身に付けているらしい。都市生活といえども案外「野生」の部分がある。意識していないだけでもっと色々あるものと思われる。ぼくの自説では人は多かれ少なかれ地磁気を感知しながら進むべき方角の見当を付けていたりするだろうと思う(ただしぼくのそのアンテナは壊れている)。
水曜の朝、なくした携帯は自動車に踏まれてペシャンコになって見つかった。手塚夏子さんとしながわ水族館へ行き、金曜夜に迫った「カラダバー」のための最後の撮影と打合せ。入館直後、以前からぼくがその異形性を力説している某魚(誰でも知っているし普通に食べられてもいる)の、その最もグロテスクな生態というかありさまをのっけから見ることになってしまって、手塚さんは恐怖に身悶えていた。確かにこれはかなり凄くて、サイズは小さいものの、正視に耐え難いものがあり、それだけに余計、目が釘付けだった。イルカの水槽の前で長くディープな議論をし、イルカショーが始まったのを頃合に退館する。ぼくのダンスや身体に対する思いには明らかにどこか変態的なところがあり、そしてそれは抑えなくていいのだ、むしろ徹底して押し通すべきなのだ、と手塚さんは言っていた。その後、ヴィデオで、シカの後足の動きと体重移動について注意深く分析を加えた後、バク、キリンとの比較を試みたり、また数種類のカメを見てその細部の多様性について考察したり、他なる身体へ向けられる眼差しや感受の仕方の様々な可能性の広がりについて話してみたりした。いかなる目的からも切れた無駄に精密な議論、その高貴なまでのバカバカしさに笑いがこみ上げて来た。