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手塚夏子さんとの「カラダバー」は想像以上にお客さんが集まってくれた。「動物を見る」という行為の特別さをフロアと共有するまでには少し時間がかかってしまったが(シロクマやツルやゴリラやエイを、文化や教養やメディアによって作られた記号としてではない仕方でダイレクトに凝視すること)、自分でも、要するにぼくは「異なる身体を生きる」ことを想像したかったのだ、と徐々に気づいていったように思う。当日までに繰り返された長いミーティングの中で、「動物を見る」という地点から「動物の“体”を見る」という地点へと導いてくれたのは間違いなく手塚さんだった。つまり「体」は、それ自体としては人間ではないし、動物でもない。しかし動物も人間も等しくもっている何かなのだ。
自分の体というのは直接見ることができないから、いつも、体感的に得られる実感と、想像された視覚的なイメージとの複合体である。オオカミに育てられた子供が四足で歩き出すように、他の身体を模倣することを通じて、体感の組成すら流動する。それに対し、今あるこの所与としての身体は、ヒトという種の社会で生きることによってヒトのイメージの中に閉じ込められている。このことの自明性をダンスは打破する(している)のだという事実は今やあまりにも理解されない。ダンスは全くおとなしい「常識(コモン・センス)」の中に飼われている。なぜなら、今日この「常識(コモン・センス)」なるもの自体がヒトと動物の間の差異をますます曖昧にしているのであり、狂暴に踊りまくる(踊らされる)世界の中でダンスは何ら際立たないのだろう。想像力の力によってヒトはヒトを超えることができるが、想像力の衰退によってもヒトはヒトをあっさり超えてしまう。
手塚夏子の実践の重要性の一つは、西洋近代医学が構築してきた解剖学的な身体像をラディカルに拒否する、という点にあるように思う。身体コントロールを外すことが、身体像をめぐるイデオロギーの向こう側に広がっている領域への想像力を刺激する。しかし社会全体が身体コントロールを解除せよと煽っている今、つまり人々がそれと意識しない間に「人間」的なものがますます「動物」的なものに重なりつつある時、「非‐人間」なものの領域は危うい状態にある。ヒトを超え出ることと、ヒトから動物に落ちることとが、区別しにくくなっている。
おそらくこの事に関連するのは、手塚さんが動物の体について言っていた「拮抗」の話ではないかと思う(この話題は本番中には少ししか出なかった)。動物の体は、個々の筋肉がゴムのように張っていて、その個々の筋肉の張りが互いを引っ張り合うような感じでバランスを保っている。だから一箇所が動くと全体が一斉に動いて、たちまち新しいバランスを生み出す。このような体は、一見静止しているように見える時でも、実は隅々までエネルギーが漲っているから、すぐに動き出せる。たとえコントロールが解除されていてもポテンシャルは常に充溢しているわけである。これに対して、ただの酔っ払いとか、メールを打ちながら駅のホームの端を歩いている人とかは、単純にコントロールが解除されているので、何か起こっても対応することは全くできないだろう。