少し前に買っておいたナチョ・デュアトのDVD Three by Duato を見る。中身はインタヴューが少しと、スペイン国立ダンスカンパニーによる ArenalDuendePor Vos Muero。後の二つは前に新国立バレエで見ている(初めてデュアトを知ったのはABTの映像で Remansos というのを見てビックリしたのが最初で、その後スタダンの Na Floresta、新国など追いかけたが肝心の本家が今年二月に来日したやつは都合がつかず見逃してしまった)。ダンサーたちの踊り自体はラフで、もっといくらでも良くなるはずだが、改めてデュアトは本当に面白い動きを作る人だと思う。何しろ「余計」な動きが多い。忙しいのにわざわざサッと一瞬寄り道する。表向き用件はこなしながら陰で、意地でも遊ぶ。そんな風に表裏を切り替えているからますます忙しく、真面目なんだか不真面目なんだか両方の釣り合いを取るために必死になっている感じに見える。体の全体を(が)運んでいくどうしようもない動きの流れというものが前提とされていて、デュアトはその流れにスッと手を挿し込み、大胆に角度を変えてしまったり、弾みを生み出したり、反発を引き出したり、グッと止めて溜めを作っておいて解き放ったりしながら、流れを殺さないようにどこまでも導いていく。無理な動き、強引な動き、人の恣意だけで行われる動きがほとんどない。クルッと裏に翻したりするのも自然に見えるし、リズムの刻み目を利用して手品のように反転したり、たとえ止めてもエネルギーは続いていて、効果的かつ自然な、少しも大袈裟でない形で再び流れ出す。体が分裂をはらむことなく、あくまで有機的な統一を保っている。あまりしっくり来る喩えではないが、例えば盆栽を育てるみたいに、まず所与としてある柔軟な動きの流れに、色んな硬質な道具をソフトにあててコントロール(管理)するのと似ている。
これを見ていて先日たまたま読んだシャルル・フーリエの「美食」論を思い出した。フーリエは、いわば純粋趣味判断と食欲(功利)とが和解するところに真の美食があるという風に考えていて、これはぼくの見るところ、純粋な趣味判断は満腹の状態になって(功利性を離れた段階に至って)こそ発揮されるというカントの主張よりもはるかに説得力があり、また過激である(やはり食欲が満たされてしまってからの味わいは、確かに明晰ではあるが、明らかに味気ない)。つまり食事の時にいくら美味いからといって好きなだけ食べ過ぎてしまう人は、ただ「食い意地の張った輩、大食い、無作法者にすぎない」のであり、美食学という「学問の基礎原理も知らない未熟者」である(フーリエ長調的聖性、即ち美食学のカバラ」、『現代思想』88年9月号、特集・料理 食のエスティーク、105頁。ちなみにこのテクストは『愛の新世界』からの抜粋)。「真の賢者は常に食欲のある状態にいることが要求される」のであり、「五回の食事と四回の間食において、一日九回食事に備えうるにちがいない」(同)。

われわれを十分満腹にさせる盛大な食事の後に、デザートに出された砂糖菓子などに対してわれわれが食欲を見出すのと同様、文明人より洗練された食物系の中で、人は、最も盛大な食事の後にも食欲がある状態であると感じ、一時間半後に出される間食や、同じ間隔をおいて出されるおやつに臨まなければならないだろう。食欲の持続は、出される食物の選択が適切かどうかにかかっており、固形食も流動食も大量に供給されている調和人は、変化に富む食欲を絶えず活力のある状態に保つのに、手立てを欠くことはないであろう。(106〜107頁)

カントのように功利性を超越しようとしてしまうのではなく、かといって単なる欲望に屈従してしまうのでもなく、功利を超えた「超・欲望」とでもよぶべきものにおいて両者は調和し得る。しかしこれはやはり、どうしてもフーコーの『知への意志』第五章の「生きさせる権力」と重ねたくなってしまいもする。
奇妙なことに収容所、あるいは監獄は、「監獄ロック」(プレスリー)から「檻のなかのダンス」(鶴見済)に至るまで、ダンスの相関物として考えられてきた。土方巽は書いている、「ぼくの生産性と道徳に対する破壊行為に、これほどぴったりしたメカニズムを備えた劇場は、又とない。刑務所の嬉々とした混浴の状態に、ぼくの舞踊をみ、近代文明の失陥とその良識の紋章に、死刑囚をみる。彼らの歩行に、ぼくの舞踊の原形をみる」(「刑務所へ」、『土方巽全集』I、200頁)。このテクストは61年に発表されたもので、反体制的な気分がストレートに出ている。既存の「劇場」で行われている「舞踊」に対して「刑務所」で行われるはずの「犯罪舞踊」なるものが明確に対置され、「劇場に放火」し、「野外」での「実生活」において「二流の人殺し」になり、「刑務所」へと送られることを土方は夢想する。「密室から野外へ、野外から刑務所へ」(199頁)。つまり「刑務所」と「ダンス」はともに、法の外部(功利性の外部)であり、しかもそれは法の中心において隔離されるわけである。「断頭台に向かって歩かされる死刑囚は、最後まで生に固執しつつ、すでに死んでいる人間である。〔…〕歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間……この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれている」(200頁)。欲望の「十全な」開花における「調和人」=ダンス=回教徒(ムーゼルマン)、相反するはずのもの同志が背中合わせになる。