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ヴィデオが溜まって来ているので少しずつ見る。トリシャ・ブラウンの Set and Reset。83年の作品で、もうガシガシ踊っている。ただしこれは劇場ではなくスタジオのような場所で撮影されていて、セットもなし、カニンガムの Points in Space とかに似た撮り方で、絶え間なく移動するカメラの視点(カメラの「身体」)が映像上の空間造形の一部をなしている(でもステディカムじゃなくかなり大味)。数人に支えられたダンサーが壁を歩く場面がある以外は概ねいわゆるブラウン振り、明確に振り付けられているのだが動き自体はきわめてラフで生々しい。ニブロールを連想したといったら大袈裟な気もするが事実。語彙には思いのほかカニンガムの影響が見え、また腕に胴を先導させるところなどローザスみたいでもある。50歳前のブラウンも踊っているが、何といってもスティーヴン・ペトローニオの動きが凄い。
イスラエル系のDが送って来てくれた新作のヴィデオ。NYにいる間に見たやつが後半部にビルトインされている。痙攣とか、わななき、震えのような動きをフレーズとして機械的に組み合わせ、構築している。いくらでも派手になるところをあえて渋く作っている感じ、これはライヴで見たい。彼女の作品は、手当たり次第に見まくっている時にたまたま 92nd Street Y で見て面白かったのでその後追いかけた。この作品はもうすぐDTWでやるらしい。
ジェローム・ベルの Pichet Klunchun and Myself も入手。まだざっとしか見れてないが、ある種のジャドソン的なアプローチを今日の世界状況のただ中でアクティヴェイトすることに成功していると思う。「アジアダンス会議」に参加してくれたタン・フクワンが委嘱した作品で、彼の知性とセンスには改めて敬服させられる。
ジャドソンといえば Ramsay Burt の Judson Dance Theater: Performative Traces, Routledge, 2006 がようやく届いた(もう一年前にアマゾンに注文していて、なぜか何度もタイムアウトでキャンセルされていた)。Burt はイギリスの研究者で、95年の The Male Dancer が有名だが、この本では非アメリカ人という立ち位置と、「歴史の終わり」という時代状況を踏まえつつジャドソンを再考していて、なかなか刺激的な内容になっている。一人の手になる、これだけまとまった仕事としては Sally Banes 以来なのではないか。とりあえず序章と最終章を読んだ。ダントーやフクヤマの「歴史の終わり」言説の「アメリカ性」を指摘しつつ、そうした状況を19世紀ヴィーンと重ね合わせるレイナーの「現在性への抵抗」(=歴史性の奪回)で締めている最終章は大いに共感するところ。ただもう少し90年代末以降のヨーロッパでの「ジャドソン・リヴァイヴァル」が具体的に分析されているかなとも期待していた。ヨーロッパに行きたい。