死亡した携帯はプリペイドだったため番号もろとも消滅してしまい、どうせなら今度は普通の契約電話にしようと思いながら面倒くさくてウダウダと三週間近く。さすがに方々から「携帯がつながりませんが」といわれるのであれこれ比較検討するが各社本当にややこしくて考える気力がなくなる。一見得するサーヴィスに見えても実は無理なく多く支払わせるためのより巧妙な手口であったり、何が得で何が損かを考える気力を挫くために無数の「お得」なサーヴィスがこれでもかと密林のように生い茂っている。
消費にはおそらく二種類、すなわち受動的な消費と、能動的な消費があり、前者は商品の交換価値に、後者は使用価値に基盤を置くと考える。受動的な消費は、商品を貨幣として扱う。別の何かに交換できる(価値がある)がゆえに買う(価値を認める)。その商品の価値を他者が認めていればいいのであり、本人にはわからなくてもよい。受動的な消費には、もっと別の究極的な目的があって、それは生存(生き延びること)であり、ともかく今与えられている価値(貨幣)を安定的に循環させ続けることである(キャッシュフロー)。価値はどこからか垂直にもたらされ、正しく精確に受け取られる。これに対して能動的な消費は、商品を使用するために買う。使用の目的はまず商品に機能として内在しているが、同時にその外にもある。使用は、その商品の外にある何かに対してなされる。さらに、商品に所与のものとは違う機能、他の誰も認めていない価値を認め、変形することも考えられる(占拠)。価値はただ水平方向に手渡され、不確かな仕方で受け取られる。
Ramsay Burt の Judson Dance Theater 第五章の Before and after 1968: dance, politics, and the avant-garde を読む。1968年の革命の失敗以後にアヴァンギャルドの政治意識が「ナイーヴな理想主義」から一種の「リアリズム」へと変容したという筋をジャドソン派において再検証している。これは、舞踏ではどうだったのか。68年は『土方巽と日本人――肉体の叛乱』の年であり、この後土方は踊らなくなって72年に『疱瘡譚』で復帰し、73年には今度は本当に踊るのをやめてしまう。
トリシャ・ブラウンの初期作品集やロバート・ホイットマンのハプニングをDVDで出している ARTPIX から、今度はロバート・ラウシェンバーグOpen Score が出た(まだ届いてない)。これは Experiments in Art and Technology (E.A.T.) の66年のイヴェント、「9 Evenings: Theatre & Engineering」を二年間かけて全部出す(記録映像が全て残されているわけではないみたいだが)という企画の第一弾で、次はケージの Variations VII が年内に出る予定とのこと(http://www.9evenings.org)。他にスティーヴ・パクストン Physical Things、アレックス・ヘイ Grass Field、ルシンダ・チャイルズ Vehicle、デヴィッド・チュードア Bandoneon I、イヴォンヌ・レイナー Carriage Discreteness、デボラ・ヘイ Solo、ロバート・ホイットマン Two Holes of Water-3、オイヴィント・ファールシュトレーム Kisses Sweeter Than Wine、これが本当に全部出るのだろうか。凄い。