本郷にて雑務。
Burt, Judson Dance Theatre の第二章 Cunningham, Judson, and the historical avant-garde を読む。60年代のカニンガムの舞台においてデュシャンをはじめとするヨーロッパの歴史的アヴァンギャルドからの影響がいかに強かったかということ。カニンガムは偶然性(無関係性)の理論を振付ないし構成のレヴェルで取り入れたが、そうして作り出したアトランダムな振付や構成を固定し、ダンサーたちに機械的かつ精確に実行させるという段階に留まった。しかしこのことが、ジャドソン教会派の人々をして「上演というものの本性」(振付の構想ではなく、ダンサーの身体)に注目を向けさせる。アトランダムな構成を機械的に遂行しようとするのではなく、ゲーム的な構成やタスクによる振付を設定することで、ダンサーも非ダンサーも関与でき、技巧も欠点も等しく活きるような作品が可能になった。ハル・フォスターは、歴史的アヴァンギャルドが旧来の伝統に対する破壊的な批判を行ったとすれば戦後のアヴァンギャルドは芸術の制度や構造の詳細かつ創造的な分析へと向かった、と定式化している。
トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』('07、月曜社)。呆気に取られるほど抽象的な、雲をつかむような議論、根拠なくポジティヴ。訳者解説の「ネグリ社会学者じゃなく革命家」という一言で脱力した。
The Drama Review (TDR) 誌で Andre Lepecki が展開しているシリーズ Dance Composes Philosophy Composes Dance の第二部が夏号に出ていた。前回はスローターダイクの論文が入っていたが、今回は全く聞いたことのない人ばかり。ちょうど今『plan B 通信』で書いているデボラ・ヘイの O, O (2006年1月)を Danielle Goldman という人が詳細に論じていて驚く。TDR は前号もチェック漏れしていて見たら「動物特集」だった。とりあえずアガンベンの『開かれ』を扱った Martin Puchner, Performing the Open: Actors, Animals, Philosophers を読んでみる。
6月は末に大きい締切がいくつも重なり、一日一日を計画的に進めないと本当に危ない。緊張。
携帯はいまだに買えず。