京王線で、途中から小学一年生の子供らが大量に乗り込んできてワラワラと人々の隙間を埋め尽くした。一通り落ち着き、列車が動き出すと同時に、全員が進行方向と逆に5センチぐらい、ガクンと、タピオカのように(分子状に)揺れた。
日大のバーク講読。英語の文法の授業をしてしまいつつ、今もこの昔の受験用の教え方でいいのだろうかという疑念にふと駆られる。しかし「仮主語」とかそういう文法上の概念抜きで説明できるのだろうか…理屈は適当にしておいて、慣れてしまうのが一番早いのではある。それにしても、「何か好ましいものを決定的に失ってしまった」時の悲しみの感情すなわち「悲嘆(grief)」というものが、どちらかというとむしろ「快楽」の一種であり、人はそれに好んで浸ったりするものだとか、バークのいうことは時折り妙に生々しい。何かに対して悲しみつつ、その悲しんでいる自分自身をも味わうのが、「悲嘆」という感情のあり方なのだ、とか。
渋谷に出て携帯を物色、やっぱり決められず、表参道まで歩いて、ヴィデオアーティストの Shaun Irons and Lauren Petty のプレゼンテーション。本人たちが作品紹介をするのかと思ったら、会場内に作品が設置してあって、展示として自由に見ることができた。だだっ広い真っ暗闇の画面に白い鶴がポツンといて、水面に反射したりしている作品が凄くて、有機的だが寒々しい音と、荒涼とした光景が色んなことを考えさせる。屏風絵から影響を受けているそうだが、これを見ながらどうして日本の美術ではあれほど動物が描かれたのかということを考えていた。何も描かれていない「余白」が醸し出す空間の無際限な広がりと、環境の中に完全に埋没して「現実」を否定する(超える)想像力を働かすことのない動物、バタイユが「水の中に水があるように存在している」(『宗教の理論』、ちくま学芸文庫、23頁)と語った動物のあり方との間に、何かつながりがあるように思えてならなかった。そんなことはこの作品を見るまで考えたことがなかった。トリュフォーの『アメリカの夜』からインスパイアされたという別の作品では、昔のハリウッド映画のようなスカーフにサングラス、トレンチコートの女がブルックリンを歩き回り、そこに撮影現場の人々の声(フランス語)と、音楽の断片(ジャズからステレオラブ、『アメリカの夜』のあのトランペットまで)がかぶさってくる。戦前のアメリカ映画に憧れた戦後のヌーヴェルヴァーグの人々の映画が再び現在のNYに置き入れられる、という格好になっている。ここでも、屏風絵の場合と同じように、異なった文化が互いに光をあてて照らし合うということが起こっているように思う。ローレンは日本に来て、フランスの印象派の画家たちが日本の浮世絵からいかに触発されたかということを前よりも深く実感できるようになったけれども、それが必ずしも一方的な文化の摂取ではなくて、日本の側もその印象派からすごく影響を受けたのであり、文化は双方向的に動いているのだとも感じた、と話していた。
ショーンはもともと絵を描いていたので、今もアナログな作業を担当しているそうだが、とりわけ鶴の作品は素材を加工していった過程がたくさんのレイヤーとして表面に現われていて、シコシコと物を作っていくことの楽しさを感じた。最近あまり舞台を見に出かけてないが、正直、心情的にもちょっと離れてしまっているところがあって、こういう物としての作品のあり方に感じ入った。舞台と違ってダイレクトに対応を求められない、自分のペースでいられる。
終わった後に、二人と、Yさんと、四人で居酒屋。なぜかまた動物の話でバカ笑いする。