今日は『インランド・エンパイア』を見に行くつもりだったのに原稿が終われなくて見送り。尺が3時間もあるのでなかなかタイミングを合わせられない。夜は神楽坂で砂山典子を見た後、Mとサシで飲み。見たくないダンスの二大類型は「自分探し」系と「ストレス発散」系、という話がウケた。そしてグループを振付家が統率してしまうのではない仕方で、集団はどうやって踊れるかという話を(また)した。

個人の身体の力の総和が集団あるいは社会の力なのだと考える限りは、複数の身体をどこかで束ねなければならないから、身体ではなく観念のレベルで何かを共有することになる。それは常に抽象だから、個人を強制する規範になる。しかし複数であることの力というのは、個々人に属するものの合力を必ずしも意味せず、特定の個人と個人があいまみえている時に、その特定の人たちの「間」で生まれてくる。例えば、誰かと話している時に、自分一人で考えている時には思いもしなかったような言葉や考えが口をついて出てきたりする。それはもともと自分の中にあったのかも知れないが少なくとも自分一人では引き出せなかったもので、しかしだからといって話し相手との議論の結果として導き出されたわけでもなく、ただその具体的な会話のシチュエーションの中で初めて言葉になることができたということだ。だからそれは、その人の言葉(所有物)というより、その「場」で生じた言葉(社会的な生産物)である。こういう出来事は「コミュニケーション」(伝達や疎通)とは区別される。自己反省や、他者とのコミュニケーションではなく、いわば「関係」やその力学から言葉が発生する。複数の「自己」の合力というものが、数量的な大きさとしての「普遍」を志向することの暴力から逃れられないとしたら、この関係の力というものは、具体的なシチュエーション(特定の複数の身体によって共有された場)の中に限定されていながら、というか限定されているがゆえに、その場の特殊性を普遍的に規定していると思われていた条件を超えることができる(「普遍」には向かわないが、「特殊」を破裂させることで、その「特殊」をより高次のレベルで定義している「普遍」を破壊する。例えば、「日本」が内部で破裂を起こして、それまでの「日本」でなくなってしまえば、世界秩序の全体が揺るがされることになる)。

週末の、びわ湖フェスの地点『かもめ』が凄かったらしい。今年は他の演目がどれも関東で見られたから、今一つ引きが弱くて逃してしまったが、仕事で関西へ行っていた人々の話では2000席のオペラ劇場を超贅沢に使った見事な演出とのこと。悔しい。びわ湖フェスは、数年前のキノコの『Flower Picking』も凄かった。
しかし東京でも、砂連尾理の振付作品が非常に濃く、充実していた。いわば『明日はきっと晴れるでしょ』の中の、内向きに緻密な部分が凝縮して高められたような、手応えのある作品で、体の質量をしっかり感じさせてくれる。砂連尾理のこういう仕事が見たかったんだと思った。