最近メーラーを変えたら、送ったメールが文字化けしてしまったようで、何人かの人に教えてもらって直した。それで、京都のSさんから帰ってきたメールは、「文字化けしてますよ」の後にさりげなく「お盆だからかな?」と書いてあって、感動した。やはり関西の人はシナプスの構造が違うと思う。
昨日考えたことの続き。どんな言葉も、特定の誰かが話している以上、そこで「普遍」が語られることはあり得ないのだと考えるなら、突き詰めていえば、その人の特殊な現実を何らか「普遍」(ゴール)に照らして欠けたところのあるもの、不完全なものと見なして、だから成長していこうと志すことも、もうできないということになる。そのようなわけで今、多様な個々人の特殊な現実は至るところで肯定されるに至っていて、しかもそうした(許された、解放された)人々は少しも幸福そうに見えないのだけれども、しかし「普遍」(ゴール)を設定することなしに現実を否定して(変えて)いくということは考えられないのだろうか?ゴールへ向けて知識や技術を積み重ねていくのではなくて、現実を分析してその地盤を解体していけば、知識や技術は積み重ならないで、蟻地獄のように内側下方に向かってどこまでも進んでいけるはずだと思う。そしてその個々のやり方は、全く個人的で(普遍性を欠いていて)構わないというか、個人的であるほかはないのだと思う。