今年の夏の特異な現象としては、セミがやたらと地面にいる、ということがおそらく挙げられると思う。なぜ地面にいるのだろう。止まっている時はほとんど身じろぎもしないので、いても気づきにくく、そのくせちょっとした刺激でエキセントリックに反応するから、怖い。ひっくり返って死んでいるのかと思いきや案外まだ生きていたり、何もないのにいきなり絶叫して地表近くをハタハタ暴れ回ったりして、本当にショッキングだ。歩いていて道にセミがいるとそれだけで少し緊張する。迷惑。
カール・シュミット『陸と海と』('71、福村出版)を古本でゲットして電車の中で一気読み。ベヒーモス(陸の獣)とリヴァイアサン(海の獣)の国家モデルの対比とか、鯨の崇高なイメージとか、とにかくどこを切っても面白い。ヴィリリオみたいだった。空間概念としての「海」に興味をもったのは、戦前の日本とアジアの関係を勉強していて、明治中期の「貿易に基礎を置く「海」の思想」から「閉じられた地域としての「圏」の思想」へ(最終的には大東亜共栄圏)という横滑りが指摘されていたからなのだが(清水元アジア主義と南進」、『岩波講座 近代日本と植民地4 統合と支配の論理』、1993年、109頁)*1アメリカ大陸が「発見」され世界一周が実現され、また他方ではコペルニクス以降の宇宙論が形成されることで、「無限の空虚な空間」としての宇宙と、均質かつ有限な地表の観念が形成されると同時に、土地の占取(植民地化)が地球規模のゼロサム・ゲームになるという辺りが、「西洋」と「東洋」のたどって来た歴史の決定的な隔たりを感じさせる。西洋は実用性のある「普遍」のモジュールを作り出すことに成功したから、それをもってない地域や人々は全て自由に操作可能な「客体」として現われる。シュミットは「無限の空虚な空間」の観念の成立を「空間革命」とよんで、これは単なる既知の空間の地理学的な拡大ではないのだといっている。どれだけ遠くまで出かけられるかということではなく、「世界地図」を描けたこと、というか「世界地図」という観念をもてたことが決定的なのであって、だから、コロンブス以前にも色々な人がアメリカにはやって来ていたけれども、「それにもかかわらずアメリカは一四九二年に初めてコロンブスによって「発見」されたのだ」(64頁)。空間革命が、「発見」を可能にするのであって、新しい土地の「発見」が「全地球的な空間革命」を引き起こすのではない。「もしそうだったとしたら、アズテック人はメキシコに、またインカ人はペルーに留まってはいなかったであろう。ある日かれらは世界地図をもってわれわれのヨーロッパを訪ねてきていたことであろう。そしてわれわれがかれらを発見するのではなく、反対にかれらがわれわれを発見していたことであろう」(65頁)。白石隆の『海の帝国』('00、中公新書)をもう一回読み直してみたくなった。

*1:「〔明治中期の南進論の主流、例えば志賀重昂、田口卯吉、服部徹などは〕近代日本の目指すべき発展のヴィジョンを自由貿易主義に基づく通商立国を本旨とする一種の「海洋国家」論として展開したのであって、アジア諸国の文化的・歴史的類縁性に基づく連帯と欧米の帝国主義への対決を説くアジア主義的な色彩はむしろ薄かった」(95頁)。