丸の内でGさんとミーティングの後、国際交流基金の「異文化理解講座」というのに行く。インドの色々な芸能や儀礼を週替りの講師がレクチャーするシリーズの初回。今日は慶應の鈴木正崇教授による総論と、南西インド・カルナータカ州の「ブータ」というものについて。どういう人が来ているのかわからないが100人近く聴講者がいて、レクチャーも容赦ない密度と速度でハイクオリティだった。カルナータカの南のケーララ州の「テイヤム」というやつはド派手なメイクで知られてるが、「ブータ」はそれにちょっと近い感じで、様々な神を演じてトランス状態になったりする。メイクや装飾もそうだが、生きた鶏を喰いちぎったり、発想は単純ながら「強度」があるなと思った。真っ黄色の顔とか、大きく見開いた目とか、要は意味よりも強度、インパクト(衝撃)なのである。神とか動物をかたどった像などどれも奇怪で、単純に怖くて、バリで夜道を彷徨った時のことを思い出してしまった(さらにいえば4歳か5歳くらいの頃、親戚の家に泊まって、夜中にふと目を覚ましたら壁にモナリザの絵がかかってて、それが異様に怖かったのも思い出した)。リチャード・シェクナーなんかがインドを参照して70年代に「パフォーマンス」とか「儀礼」と言い出した時に、前提にあったのはやっぱり「人類学」なんだろうけど、「儀礼(ritual)」っていう言い方はどうしても単なる形式の反復みたいな感じに(おそらく日本語では特に)聞こえるし、「パフォーマンス」というと本気じゃない見せかけ(シニフィアン)としての身振りというイメージになってしまったりして、その場で経験される「強度」の部分がうまく捉えられてない気がする。生きてる芸能は、その場に居合わせる人間の体や生理に直接影響する無意味な力の強度があって、それが共同体を生み出したり支えたりもするのだろう。逆に、そういう強度がなくなっても、既存の共同体を維持するためだけに続けられる芸能というものもあるのだろう。椹木野衣が『黒い太陽と赤いカニ』('03年、中央公論新社)[amazon]でいっていたことに引きつければ(8頁)、後者は「文化」かも知れないが、「芸術(=爆発)」なのは前者なのだ。
岸和田の「だんじり」とか、本番はまだ見たことないのだけど、地元の人たちは本気で燃えていて、文字通り「命」を賭けてる勢いで、驚かされる。以前、岸和田駅前の商店街を歩いてた時に、CD屋さんの店頭のモニターで去年のだんじりの映像が流れてて、見ると棚には過去数年分のだんじりのDVDがギッシリ並び、その中には「事故名場面集」みたいな黒いやつもあったりして、買おうか迷ってたら、中学生ぐらいの子供らが自転車で通りがかり、停車してモニターのだんじりをしばらく眺めて去っていった時、その振る舞いの「普通さ」にディープな異文化を感じた。駅前の本屋には写真集などが常時取り揃えてあるし、先月末にはコンビニですら、入ってすぐのところにだんじりグッズ(団扇、手拭、ポストカードなど)が陳列されていた。轢き逃げで捕まった人が「だんじりが曳けなくなると思って逃げた」と供述しているニュースも見たことがある。