ツタヤ・ディスカス、二周目。安里麻里塩田明彦の対談で、アクション映画の話になった時、三隅研次ジョニー・トーの名前が挙がってて、ジョニー・トーって香港の監督は全く知らなかったので『PTU』という03年作品を借りてみた。とんでもなくヘンな映画、要するにオタク映画というか、オタク的な技巧的な攻めが何か素直に喜べないのだけど、とりあえず画面もプロットも役者も異様に面白いというしかない。ギャグなのかシリアスなのか曖昧なテンションをずっと漂わせていて、深夜(1時〜4時くらい)特有の冴えた空気と妙にまったり流れる時間、誰一人として他人を信じてないノワール感、大詰めのセルジオ・レオーネみたいなマニエリスティックな銃撃戦。意味不明すぎる唐突な警察機動部隊の暴行シーンの後、ボコボコにやられたチンピラが車のエンジンをかけ、長々とバックして向きを変えてから、すでに颯爽と歩き出している警察隊の脇を画面手前に向かって走り込んで来てフレームアウトしていくシーンなんか、あまりに不毛で、バカバカしくて、唖然とさせられる。無言で延々とビンタを張り続けるシーンは『その男、凶暴につき』だ。二本目は万田邦敏の『ありがとう』('06)。万田邦敏じゃなかったら見なかっただろうけど、やっぱり二時間で面白く処理できる内容じゃない気がする。とはいえ、関西弁だから初めて可能になるドラマというか、関西弁それ自体が主体となって生み出すドラマというものがある、と思った。どんなにシリアスに息詰まっていてもアホとかボケとか口走ってしまえばそれだけで空間が生まれて、身動きが取れるようになる。言葉のイントネーションというか、メロディが、精神的なエンジンになって、人を行動させる。よく地下鉄サリン事件阪神淡路大震災をセットにして「1995年」を考えてしまうが、東京の地下鉄サリンでこういうドラマは描けないと思った。
ところで、もう結構時間が経ってるのに、『蟲たちの家』の、クライマックスの直後、緒川たまきが段ボールに雑誌を詰め込んでいる背景で、窓の外に雪が降っているシーンが忘れられない。物語が停止した後に、固く握っていた手をパッと離すような具合に、広々としたリヴィングと大きな窓、雪が後から後からふんわりと落ちてくるその感触、そして雪の白さが醸し出す独特の明るさ。すごく印象的なシーンなのだけど、しかもそれがすぐに、映画中盤の、西島秀俊が最初に暴れて室内をメチャクチャにし、クッションの中の羽毛が激しく部屋中に飛び散るシーンを思い出させ、すると、その飛び散って空間を満たすもの(暴力)が、表面上の問題の終息とは裏腹に、実は今や室内ではなく室外(世界)に充満してしまっているのではないか、という不条理な不安をかきたてる。もしかして『カリスマ』とか『回路』を見ていなかったら、そうは思わなかったのかも知れないけど、論理の飛躍の度合は『カリスマ』や『回路』よりもずっと大きく、もはや何も筋の通った説明がされていない、全く説明のしようがないところで、明晰に何かを言っている感じ、そこが強烈に美しいと思う。