初めて生で見たキャロリン・カールソンの踊りは良かった。いってしまえば「ただの」踊りだがそれが良い。序盤の一部分と、終盤。確かに、フランスのダンス・コンタンポレーヌが始まるきっかけを作った人という肩書の大きさに比べたら、どうしたって派手さには欠けるとはいえ…前に『Blue Lady』('85)をヴィデオで見て、あれ?と思った時の感触を記憶の中でたぐり寄せると、たぶんそれに近かった気がする。
横浜へ向かう前、日大の演習の帰りにYくんが「どうして物真似は笑えるのか」という問いを発する。絵や彫刻の場合、本物に似ているとかリアルであるからといって、人は別に笑わないと思うが、物真似はなぜ笑うのか?たまたま前の日に、とんねるずの番組で「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」というのを見ながらそんなことを考えていたので、見た?と聞いたら、必ず見ているという。あれは、いかにオリジナルに近いかを誇示するんじゃなく、いかにもありそう、というところを突いて見せている点で、歌マネとか、そっくりさんとは違っているように思う。いかにもありそう、というのは、アリストテレスの悲劇論でいうところの verisimilitude(迫真性)に対応しそうだが、「リアリティ」に加えて、些細なディテールにこだわるその着眼のくだらなさに、笑ってしまうのだろうか。カリカチュアというのは誇張だが、「伝わらないモノマネ」はカリカチュアではなくて、大概が極端なリアリズム、つまりミメーシスなのだ(「リアルゴリラ」なんかは本当に凄い)。
ツタヤ・ディスカス、三周目。今回はドキュメンタリー的なものが組み合わさってしまった。一本は原一男ゆきゆきて、神軍』。まだちゃんと見たことなかった(まだ見てない)。もう一本は高嶺剛『もしもしちょいと林昌さん わたしゃアナタにホーレン草 嘉手苅林昌 唄と語り』('95)。『ウンタマギルー』と『つるヘンリー』の間に撮られたもの。映画としては何かあまり芸がない感じだが、沖縄語の普通の会話を聞いていて、すごく不思議な気分になった。全く、5%くらいしかわからない。しかし5%だけわかるから当惑する。島尾敏雄が「共通語」と「沖縄語」を「くらべ聞くことによって、その人にとっての日本語はその表現領域が従来の感受より二倍の上も広がっていることに気づくであろう。表現領域が広がるばかりでなく、明らかにずれの存在の場所から、おたがいの言葉がそれぞれの言葉のパロディーになっていると見ることもできそうなことだ。これは全く素晴らしいと言わなければなるまい」(『新編・琉球弧の視点から』'92、朝日文庫、286頁)といったのはこれかと思ったが、「素晴らしい」と言い放つ余裕はぼくにはまだなく、ただ知っているものと知らないものとの間に自分が宙吊りになる感覚の奇妙さだけを強烈に感じる(同一的なものと非同一的なもの、アイデンティファイされたものとされていないものとの間に)。それから、大城美佐子の歌は、録音では聞いていたし、映画でも何度か見ているはずなのに、この人の話したり歌ったりしている顔をしっかり見て初めてその歌を正面から受け取った気がした。強く張って、シニカルに抜ける、その小刻みな揺らぎが、聴く意識をつかんでしまう。嘉手苅林昌、大城美佐子、嘉手苅林次が並んで歌う、夜の牧志公設市場のシーンは天国的な盛り上がり方をする。