カンパニー・サミュエル・マチューと一緒に来日した、トゥールーズ振付開発センターのディレクター、アニー・ボジニ(Annie Bozzini)氏のレクチャーを聞きにシアタートラムへ。「コンテンポラリーダンスの源を探る〜ポスト・モダンダンスの流れから」という題だから、てっきり90年代後半以降のジェローム・ベルやグザヴィエ・ル・ロワの背景を説明してもらえるのかと思っていたら、ほとんどイヴォンヌ・レイナーの『トリオA』の解説だった。話の内容は、概ね、サリー・ベインズの Terpsichore in Sneakers とレイナーのテクストから再構成した正統的なもので、独自の解釈はあまりなかった。映像は広く流布している78年制作のもの。フランスでは Terpsichore in Sneakers の仏訳が2002年に出たのだが、もし日本語訳が出てさえいれば、氏も基本事項の解説などに時間を割かずに済んだことだろう。ポストモダンダンス自体じゃなくて、それがどういうコンテクストで再評価されているのかを聞きたかった人は当然他にもいて、MさんがQ&Aで質問したが、ベルやル・ロワなど事実関係が紹介されるに留まった。Continuous Project - Altered Dailyの再演が、ボジニ氏がトゥールーズに来てすぐに手がけた仕事だったとのこと。
とはいえ、カンパニー・サミュエル・マチューのうち三人が『トリオA』を実演してくれたのが良かった。世田谷に来てから稽古したそうで、全体の三分の二くらいまでだったが、初めてこの作品をライヴで見た。マチュー以外の二人は振付の入り具合に少しムラがあるのか、それともそういう習慣が身についてしまっているのか、要所要所で彼の動きのタイミングに揃えてしまうのだが(この作品は個々人が自分の内感でペーシングすることになっているので、本当はズレて良い。極限まで孤独を味わう作品)、マチューのコメントが実感を伴っていて興味深かった。「この辺りはダンスでよくある動きをダンスっぽくない感じでやるので面白い」とか、あるいは「アラベスクに近くなるところで、無理に均衡を取らないでヨロヨロしていいんだ」とかいった指摘なんかは特に、レイナーのやったことを今っぽい感覚でリテラルに受け取って面白がっている感じで、とても刺激を受けた。映像の中でヨロヨロしているレイナーのヨロヨロは、どこまで本気でヨロヨロしてるのか解釈を躊躇ってしまうところがあるのだけれども、マチューはおそらく「『トリオA』はヨロヨロを見せている」と率直に受け取っている。
ところでボジニ氏は、ポストモダンダンスの中で非常に重要なテーマとして「決定 decision」の問題がある、と言っていた。これはおそらく彼女独自の言い回しだと思うが、話の中でよくわからなかったので、Q&Aの時に質問したら、結局タスク・ムーヴメントなどジャドソンで開発された様々な(民主主義的な)方法論のこと、という感じで落ち着いてしまった。しかしこれは広く「主体性」の問題、いいかえれば、『トリオA』のヨロヨロも含め、「決断主義 decisionism」への批判という問題をクローズアップする重要な指摘だったように思う。「決断(決定)」というのは、法(規則)が失効しているような場面(例外状態)で行使される権力のことだとすれば、反「決断主義」とはどんな立場なのか。ジョン・ケージ流の「偶然性」による解決(レイナーによれば「超越論主義」的な欺瞞)とは違う可能性について考える。決定を遅らせてひたすら時間を稼ぎ続けることか(ヨロヨロ)。行動にうって出る前に深く、ぐずぐずと反省し続けることか。それとも、ヨロヨロ&ぐずぐずしながらも、微細な決定とフレキシブルな修正を積み重ねて、方向性を紡ぎ出そうとすることか。
実演の後、参加者も一部を習って実際にやってみるという趣向があった。Oさん、FMさん、KMさん、KTさんなどダンサーやパフォーマーの人たちもチラホラいた。レクチャーがお開きになった後、ボジニ氏に聞きたいことをしつこく聞いてみたが、フランスでジャドソン/ポストモダンダンスが再評価されてきた経過について、事実関係ではなく言説のレヴェルでどんな解釈や意味付けがされているのかは結局よくわからなかった。ただ彼女は、『ル・モンド』出身のドミニク・フレタールが広めた「ノン・ダンス」という呼称は、全く本質を捉えてなくて不適切だと思う、レイナーだってダンスそのものについてだけは「ノー」と言ってない、と言っていた。
DVDで『ゆきゆきて、神軍』を見る。これも突き詰めれば、ニューギニア島終戦を迎え、軍規(法)が失効していきなり例外状態に投げ出された人たちの映画だ。しかし生きるか死ぬかの極限までいけば、決断するも何もないよなあと(身も蓋もなく)思った。終戦直後のニューギニアでの旧日本兵たちの「弱肉強食」ぶりが、ネオリベ格差社会にそのまま重なってみえる。つまりは弱肉強食的な、「決断」を余儀なくさせるような事態をいかに回避するかが、理念を掲げられなくなった時代の政治に残された役割なのだろうと思う。