メール、ヴィデオ編集、飛行機の予約、校正、書類書き、宅急便……などと細々したことでどんどん時間が過ぎて行ってしまう。空しい。日中ちょっとだけ睡眠を取るナップの効果の絶大さ、の不思議さ。
DVDを編集してるので、ジェコ・シオンポの振付を何度も行ったり来たりしながら凝視。基本的なトーンの中に、よく見ると色んなものの小さな断片が混ざっていて、バレエの硬質な直線や、ジャズダンス風の左右に波打つステップ、ポッピングなんかが、やたらと速い、独特のリズムで切り取られ、効果的に組み込まれている。見れば見るほど面白い。
プラトンおよびアリストテレスのいわゆる「ミメーシス(模倣)」について、模倣行為が模倣対象と類似しているような場合(例えば物真似)と、模倣対象に類似した物の製作(絵画や彫刻など)という二つの側面に分けられる、という議論をしている先行研究をようやく見つけた。前者の方がオーセンティックで、演劇や舞踊の方に強く結びついている。
インド講座。先週に続き西ベンガル。今日は、「芸能」が扱われるはずだった予定が変更になって神話と祭儀のみになった。結果、「祭儀」「儀礼」は「芸能」ではない、という素朴な事実に思い当たる。「芸能」はパフォーマンスであり、パフォーマンスは、パフォーマンスを自ら行わない人に対して行われるから、その場には行為者と非行為者とがいる。それに対して「祭儀」は全員が行為者で、何らかの形でそのイヴェントの構成に携わっている。「芸能」には反省(reflection)が介在している。「する人」と「しない人」が対立して、互いを否定し合っている(場合によってはむしろ、肯定し合っている。ここでは大差ないことだけど)。「祭儀」では、反省が介在しないというより、反省が起こっても明確な形を取りにくい。仮にほとんどの人が醒めている(反省している)ような状態だったとしても、全体の形式自体は保たれてしまう。
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