沖縄美術館での二日間のトークセッションと『テーパノン』の公演が終了。トークセッションは、アジアダンス会議の時のようにはうまくいかなかった。今のところ普通に失望してしまっているのだけれども、ぼくにとって沖縄を考えることはどうしても必要なことに思えるので、失望したままでいるのではなく、今回の経験を少しずつ分析し直して、新しい展開につなげていきたい。沖縄という「場所」の意味が、想像以上に複雑で、またそこで生きている人たちの感情の複雑さも気が遠くなるほどだし、そしてとりわけ沖縄について語る当事者の意識が、自分から袋小路に入っていってしまう。例えばものすごく深く傷付いている人に、どうやったら外から「接触」できるのだろう、というようなことだと思う。
ピチェ・クランチェンの『テーパノン』は、ピチェが構想してきたタイ古典舞踊の精神や原理を、タイの文脈を離れても意味をもちうる普遍的なテーマにまで昇華していて、なかなか見応えがあった。自然や生命といったような、古い概念が、今とてもアクチュアルなんだなあということを改めて考えた。ディシプリンによって整形される身体、病や損傷を蓄積していく身体、生物を加工して食べる身体。もう間もなく、ピチェ・クランチェンのことを異質性や物珍しさ(要はエキゾチシズム)だけで語ることはできなくなる、と思った。