連休中、来年以降のことについてあれこれとミーティングする。これで今年はもう大体終了。
打ち合わせをしていて、最近ぼくが考えていることを口にする。すなわち、ダンスをやっている人は「なぜ」と問うことが少ないのではないか、ということ。この前、ジョクジャカルタのテアトル・ガラシという劇団の演出家のユディが、振付家に向かって結構鋭い質問をした。その時、その振付家は、自分は作品で何かを表現したりメッセージを伝えたりしたいわけじゃないのだ、ただ自分の身体的な体験を人と分かち合いたいのだ、というような言い方で自分の仕事を説明していて、こういう言い方はわりと普通に振付家が口にすると思うのだが、そこでユディは「なぜ、あなたは身体的な経験を人と分かち合いたいと思うのか」と突っ込んだ。振付家は曖昧な返事をして、確かちゃんと答えなかったように思う。まず最初の起点としてあるのが、欲求であったり、価値(観)であったり、衝動であったり、という理屈が通用するのがダンスであるとすれば、演劇はそうではないのだな、と思った。「なぜ」自分はそれを欲するか、と根拠や理由(reason)を問おうとする。答えられないかも知れなくても問うのだろうし、ことによったら欲求とか衝動を(そういうものとしては)否定することになるかも知れなくても問うのだろう。そういえば、いわゆる「制作」の人種と話している時も、「なんで、なんで」っていちいちうるさいと言われることがある。つまり「ダンス」や「制作」、いいかえれば行動や実践と、reason を問いたいという感覚は、基本的に異質なものだということなのだろう。