月末は数日毎に違う都市にいるか飛行機に乗っているような状態で、帰って来るや否や to do リストを全力で端からつぶしていかなければ本当に死ぬ、死ぬと思っていたら不意に最も巨大なやつが降って来てこのまま果てしなく死に続けなければならない見通しに。とりあえずトヨタアワードの応募ビデオは全部見終わった。二日半くらい他のことはほとんど何もせずにぶっ通しで見て、もうダンスはたくさんだと思いながら、土曜はバットシェバを見に行ったら、こんな廃人状態でもなおも面白かった。個人的には初来日時の『アナフェイズ』より、次にアンサンブルで来た時の『マイナス6』のインパクトが凄くて、NYで見た『Mamootot』もやっぱり凄くて、オハッド・ナハリンといえばムーヴメントの神と思っていたのだが、今回はそれ以上に舞台表現として一段と深いものがあった。やっぱり「イスラエル」なるものの代理表象とか、個人的で私的な身体と政治の距離、そういうことを考えないでダンスなんてやれないというのがあるわけで、素朴なやり方とはいえ、本質的には無意味なダンスのその無意味さの意味みたいなことを考えずにはいられないような作品になっていた。
ちなみに『アナフェイズ』と『テロファーザ』というタイトルは、前者が英語で anaphase、後者はヘブライ語か何かなのだろうけど英語ならおそらく telophase となるところで、するとana-とtelo-の接頭辞の違いということになり、調べてみたら細胞分裂などのプロセスの「後期」「終期」を指すようだから、両者はとても密接な関係にある作品ということになる。『アナフェイズ』をよく覚えていないので(椅子と帽子の場面しか思い出せない)、比較できないのが歯痒い。
それにしても、意味のある言葉もカタカナになってしまうと限りなく無意味化することが多いわけだけれども、無意味化するだけじゃなくて、無意味化の作用そのものを隠蔽する(何か情報を受け取ったかのような錯覚を引き起こす)面があるように思う。例えばバングラデシュという国は「ベンガル人の国(Bangla-desh)」という意味なんだということを最近知って、それで遡って気付いたのだけれども、去年のローザスの『デッシュ』なんかはヒンディー語で『国』という意味のタイトルがついていたのだ(もちろんラーガの定番曲である Raga Desh から取られているのではあるが)。公演の時はたぶん誰も言及していなかったんじゃないかと思う*1

*1:訳といえば、『テロファーザ』のナハリンのプログラム・ノートにも変な訳があって、ナハリンが、全てを一度に見渡すことのできない混沌とした空間を作ることが好きなのだ、と書いた後に、“We are not committed to containing it all. To say that you can - is an illusion”と書いているのを、「我々はそれをすべて包括できるとは約束されていない。それは――幻影である――と言うことはできる」と訳している。前半はともかく後半はそもそも日本語として意味不明で、「いやできる、ともし言うなら――そんなのは幻想だ」とすべきところ。訳に合わせて元の文を考えるなら“To say what you can - it is an illusion”とでもなっているべきだろう。