神村恵カンパニーの三作目は、他者の身体に「振付」をする(=縛りつつ踊らせる)ということの矛盾に対して一つの明確な答えを示しているように思った。私見によれば、この作品で鍵となるのは、中盤くらいのところで、舞台奥の壁に沿って横向きに、遠藤綾乃が行きつ戻りつの前進後退を繰り返し、その後を神村恵が忠実にトレースする、という場面だ。ここを見ていて考えたのだが、振付作品における動きの動機は三つに分類できる。(1)自分で動く主体的な動き。(2)他の何かの動きに従う他律的な動き。(3)振付家なり観客なりの視点から舞台全体を見た時の、客観的な秩序に従う動き(コンポジション)。上述の場面での遠藤は1であり、神村は2であり、この場面の全体は振付家の意思に従っているのだから3である(遠藤は自分の判断で決定したり迷ったりしており、神村はただ遠藤の動きから一寸たりとも外れないように体をコントロールしており、そうした二人の行為や配置は振付の段階で予め決定されている)。一般に、振付家の仕事は3をダンサーに与えることで、当然それは、突き詰めれば1や2と対立する。しかし、だからといって3を完全に捨てることはできない。そこで普通は、3を1や2と程よく調和させたり(踊り手に自由な解釈を許すとか)、3を徹底化することによって3と1・2が一致するようにしたり(厳格な振付を行い、踊り手はそれを内面化するとか)、ということが行われると思う。ところがこの作品では、振付家は、踊り手には3を与えつつ、いかにそれを1や2に侵食させ、実質的に3の割合を削減するか、ということに取り組んでいるように思われる。だからむしろ、3はまず過剰なまでに露出される。1や2とは明らかに違う要素として剥き出しにされ、踊り手は極度に機械的にそれに従う。それは3が直ちに1や2に乗っ取られ、深々と侵食される過程を明確にするためなのだ。また他方、3は必要最小限にしか作られていない。既に1や2の状態に入っているダンサーが、例えば観客の視点から見た客観的な秩序(コンポジション)に変化を与えるような「ヴァリエーション」に次々と奉仕するとかいったことは行われない。