フロイトの『快感原則の彼岸』を読んでいたら反復について面白い話が出てきた。子供が遊戯などを反復する時には、繰り返すことによって、与えられた状況を「支配」し「克服」しようとしている。だから反復されるものごとが毎回、同一であることにこだわる。「反復、すなわち同一性の再確認そのものが、快感の源泉となっている」。これに対して反復強迫は、抑圧されたものを、過去の一場面の再現(想起)ではなくて、その都度「現在の経験」として何度も生きる。つまり「同一性の再確認」ではない反復、あるいは、いわば「反復そのもの」ではない行為としての反復、というものがある。
夕方から浅草で会議に出る。二時間ほど、すぐ戻って授業の準備。今週は補講期間なので曜日がイレギュラーになっている。
講義の関係で、ローザスの『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』とか、アクラム・カーンとシディ・ラルビ・シェルカウイの『ゼロ度』とかを見直して、ヨーロッパの作品がいかに練って作り込まれているかを改めて思う。ローザスのは「アメリカ」あるいは「自由と平等」がテーマなのだし、カーンとシェルカウイのは冒頭からパスポートをめぐるトラブルがインドの古典芸能風の声と体の正確な操作で語られたりして、ナショナリティ(国籍)やアイデンティティ(ID)という主題が提示される。いずれにせよアーティストが社会の中で果たす役割というものをはっきり反映しているように思う。つまり個人の趣味嗜好を超えたテーマ、課題に取り組んでいる。(こうしたことは、日本公演の時には著しく目につきにくくなる。まず一次情報の段階で「難しそう」な解説や注釈はカットされるし、仮にテクスト等の日本語訳が出ても大半は意味が通らないので、何やら「難解」で「権威的」な上辺の印象だけが残る。)これに続けて日本のダンスを見てみると、もちろん違いは色々あるとはいえ、費やされている時間と金の違いなどというのは表層でしかなく、むしろ重要なのは作り手と観客の関係だろう。ヨーロッパのアーティストの社会的立場はいわば「知識人」で、観客に向かって、問題提起をしたり、挑発や提案をしたりする。ちょっとしたアイディア(思いつき)で何か面白いものを作るとか、そんなことではなくて、まず図書館やライブラリーでリサーチをするし、フツーの人の水準を超えたところまで問題を掘り下げながら作品を作り上げる。だからアーティストは「公共」の存在として厚く遇される。これがヨーロッパ式の、「芸術」というもので、基本的に「面白いか、否か」が基準になる「芸能」とは全く異質なものだ。極端な話、まったく面白くなくても「芸術」は成立する。つまり「面白さ」よりも優先される価値というものがあるところにしか「芸術」はないだろう。「面白さ」を interest といいかえると、それは個的な利害関心だから、「芸術」は個を超えたものとしての「公共」に関わる。
(ところで面白さゼロでも、純粋な公共に奉仕する芸術というものがあり得る。「純粋な公共」とは「超越的存在」でしかあり得ないから、するとそれは一種の宗教だ。こう考える限りは何もヨーロッパに限った話ではない。祭儀の類なんて、まったく面白くなかったりするが、「純粋形式」として遵守される。)