横浜の We dance へ行く。手塚夏子と山崎広太の実験がそれぞれ面白かった。直接に「成果」を問うのではない試行を試行としてやっていて、ジャドソン的なオプティミズムがあった。ラウンドテーブル「ひらく会議」も、聞いている側としてはやや歯痒かったものの、アーティストたちが自分たちの言葉で考えて語っているのが良かった。誰が話すのか、何を話すのか、という進行上のファシリテート(舵取り)はもう少し必要だが、こういう話し合いがしっかり継続していけば良い。「コンテンポラリーダンス」の自己反省が、いよいよ始まるのではないかとすら思った。
ところでこのラウンドテーブルで、「コンテンポラリー」ということをいう時に「古典」と「エンターテインメント」が否定的に語られていた。古典とエンターテインメントに共通するのは、ものの価値が、個々人の好き嫌いよりも先に前提とされてしまっているところだと思う。だから、古典には「権威」が付きまとうし、エンターテインメントには「マーケティング」や「同調圧力」のようなものが付きまとって、人を、個人としてではなく、一定の知識(教養)をもつ人々の集団として扱ったり、マスの中に押し込めようとする面がある。これに対して「コンテンポラリー」は個人主義なのだ、ということだろうと思う。(古典だろうとエンターテインメントだろうと「個人的」な仕方でもって強烈に感動するということは当然ある。ただ古典やエンターテインメントでは、「正統的な」解釈や、「一般的な」反応というものが予め想定されている。)
もう一つ、クラシック(古典)というものは「鑑賞」するものであって、「コンテンポラリー」は「体験」が重要だ、という話が出ていた。これも上のことと関係するが、つまり「鑑賞」というのは、見る対象をどのように見るのか、いかに読み解くのか、ということの約束事(コード)を踏まえた上で見る姿勢のことだろう。それに対して「体験」は、見方、読み方そのものが、その場で新しく生まれてくるような出来事だと思う。自分の見方そのものが作り変えられるわけだから、それは自分の「目」が鋳直されることでもあり、したがって自分の体が巻き込まれているということでもある。約束事のフィルターを通して見ている対象は、多かれ少なかれ「他人事」の域にあるだろう。しかし自分の体が巻き込まれている時、そこには個人的な「意味」が生まれる。例えば劇場でこの「意味」が生まれにくいとすれば、劇場という制度自体が一定の約束事を提供してしまっているために、見る者の体が「体験」することから自動的に遠ざけられるということだろう。それに対し、日常生活の中で何か普通でない、奇妙な出来事に出会うと、人はそれを読み解こうとする。いいかえれば、意味不明なものに出会って、そこに意味を作り出す。(他者との関係において「立ち位置」を作り出す。)(これについては、前にダンス白州で阿部公彦さんが話されていたことに触発されてまとめてみたことがあった。http://d.hatena.ne.jp/mmmmmmmm/20060910
また話題に上がっていた「コミュニティ」については、例えば、現にある人を取り巻いている社会的な「環境」のことを、普通は「コミュニティ」とはよばないと思う。ただ、そこへの「帰属」が意識され、またその意識が共有された時、それはそのままの形で「コミュニティ」に転化するだろう。ではいつ意識されるのか、といえば、それが何らかの危機にさらされた時ではないか。